しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

板垣退助 岐阜

2021年04月21日 | 銅像の人
場所・岐阜県岐阜市  岐阜公園
制作・柴田佳右
設置・昭和25年

明治15年自由党総理として岐阜中教院にて演説、
「板垣死すとも自由は死なず」と有名な言葉を残したが、一命をとりとめる。
その板垣総理遭難の地である。





板垣退助

天保8年(1837)~大正8年(1919)
高知藩士。
戊辰戦争では総督府参謀となり、会津攻略に戦功があった。
明治7年愛国党を結成、自由民権運動を展開。


「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行










「教養人の日本史」 現代教養文庫  社会思想社  昭和42年発行

「板垣死すとも・・・・・」

天かに知られた名セリフである。
明治15年(1882)3月、東海道遊説の旅に出た自由党総裁板垣は、
4月6日岐阜で演説をした。
そのあと会場の玄関を出たとたんに刺客に襲われ、手と胸に傷を受けたが、
一命は助かった。

板垣らは政府の放った刺客と直感したらしいが、犯人は愛知県士族の小学校教員で、
板垣国賊説を頭から信じ込み、ことに及んだのである。

このことが全国に伝わるや、各地の自由党員が隊を組んで岐阜にかけつけた。
政府弾劾の声が広まり、山県有朋は急いで宮中にかけこみ、
板垣を慰問する勅使派遣が決められた。
これが大いに効果があったようで、板垣は勅使派遣を聞いて感涙にむせんだという。

傷が治り東京に帰った板垣に、伊藤・山県・井上馨らの計略が待っていた。
政商三井から出させた金で板垣を洋行させようというのだ。
板垣は外遊に踏み切り、事態は政府の期待通りにすすんだ。




撮影日・2011年8月5日



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