しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

御船を海に

2016年06月25日 | 父の話
談・2003.10.5

御船を海に

(祭りの神輿を海に浮かべることはあったのか?)
あった。
西ノ谷が当番の時、波止から飛び込んで海の中をとおて苫無の松原まで行った。
帰りしなは上の道(土手)を歩いて戻った。
土手を守ってもらう意味で通る。
新川(を通るの)もそうじゃ。


八幡さんの土俵
(祭り等で相撲を取るのをみたことがないが?)
つかようならんだが、子供相撲で物をやりょうたりしたこともある。


茂平の屋号(の一部)

端(ハナ)
いんきょ
かんのんどう・・観音堂があるから
えべすんき・・戎っさん、銅山じゃあ先生、よそからはウチもじゃ
中(なか)
表(おもて)
後(うしろ)
前(まえ)
夜灯・・銅山の人がゆう(使う)だけじゃ。
太歳(ださあ)

よもと・・地名じゃ。


茂平の果物は福山へ

(なぜ福山へ出すのか)
笠岡へ出すと安うなる。買い手がおらん。
福山の方が市場がひろい。高う売れる。


番屋の隣の公会堂

昔は学校で、その後は
茂平の(全体の)公民館で使ようた。

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茂平大池の魚獲り

2016年06月25日 | 父の話

談・2003.9.14

茂平大池の魚獲り

大池、小池、尾越、・・・水田の池。
(池の掘り直しとかでなく)池干しは
乾燥した年には魚を捕る。
鮒(フナ)を焼いて天日で干し、汁のダシにしょうた。
(汁の)味がえかった。

昔は大池でも小池でも、池が干でしまようたら魚を捕りにいきょうた。大人も子供もはいって取りょうた。
鮒がおるばあじゃ。
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阿部山の開墾

2016年06月22日 | 父の話

談・2003.9.15


阿部山の開墾

おじいちゃん(父のこと)はしょうことなしに(阿部山)に行っとった。
県の指導員をしょうたから、しょうがないから行っとった。(開墾を)進めにゃあいけん立場じゃった。
行ってみても、あんなとこを開墾してもなんでやっていけりゃあ思うようた。
平たんでもないし、牛でも飼うくらい。畜産のような。そうでないとやっていけん。



茂平生産組合

生産組合をこしらえて入植したんじゃ。
33町ほと貰うたんじゃ。
組合を作らにゃあくれんのじゃ。個人じゃあだめ。



脳溢血で死ぬ話し

(今はガンで亡くなる人が多いが、子供の頃、死んだといえば決まったように“脳溢血”での死が多かった)
畑仕事が忙しい時、なにばあ飯も食べずに畑に行き、水も飲まずに仕事をして。そうゆうもんが何日がつづきょうると、養生をする前に倒れてしまう。
身体が弱いもんがまいりょうた。仕事の無理をしょうた。


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SLに乗って茂平から高松へ通学の話

2016年06月21日 | 父の話

談・2002.8.24


SLに乗って茂平から高松へ通学の話

(母)
(長男が通う高校は、水攻めで有名な高松だった)
高校を受けるときは中学の担任から「受けるのは掛けじゃ」いわれた。

朝6時ごろ家を出ようた。
大門駅に出るのは、なるのとっさんが「どちらかが蜘蛛の巣をはろうて出る」ようた。
とっさんは、それか間なしに死んだ。気の毒に、まだ51才じゃった。かぞえで。

大門から汽車に乗って庭瀬で乗り換ようた。
(※茂平~大門と庭瀬~高松は自転車)

早かった。
真っ暗。
弁当を作りょうた。
くどを焚きょうた。

週に何日か(遠いので、週に二日ほど岡山市の親類宅に)泊まりょうた。
泊まりょうたから(大学生の従兄に)勉強をみてもらようた。
それで公務員の試験にとおた。県の試験も国の試験もとおた。びっくりした。
その頃は県の試験はむずかしゅうて、通るんなら大阪やこ行って受けい言わりょうた。


百姓の税金
かなり収入がなけりゃあ(税を)とられるゆうことはなかった。
固定資産時ははらようた。

兵隊の郵便の検査
兵隊が出す(外地から)・・中隊の班長がちょっとみる。おかしげなことを買いとらんか。
兵隊が出す(内地から)・・同上。
兵隊へ出す・・・・郵便局でみるようになっとった。


コーヒーや紅茶・・町へ出た時、飲むことがあった。


歯磨き・・粉(こな)。カンカンにはいった。


笠岡へ船で行くと
船着場(西ノ浜のようだ)に着きゃ、酒屋があり、ちくわを買うて焼酎を飲みょうた。
映画を見て、コーヒー飲んで
伏越やカフェーがあった。


しょうやん
しょうやん(魚売り)が来る前にも、似たような人が魚を売りにきょうた。
しょうやんが売る魚は笠岡湾のものが多かったが「おくり」(他市場)のものもあった。


茂平のぶどう畑が減ったのは?
安うなった。あほらしんで止めた。
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城見小の金次郎さん

2016年06月19日 | 父の話
談・2000.9.17


城見小の金次郎さん

(終戦後、天皇の巡幸に関し
天皇の巡幸が小学校であれば、天皇到着以前に次の物を必ず撤去するよう通達が出た。
二宮金次郎像
和気清麿像
奉安殿
忠魂碑
御真影
原型をとどめないように撤去すること。
城見小に天皇は来なかったが、どう処理したのか)

城見小には金次郎像のこまいんがあった。取った。
清麿像はねえ。
奉安殿はどこでもある(ない学校がない)、取っしもうた。


岡山県農業普及員のこと
(戦後すぐに辞めた普及員のこと)
最初(城見村)役場に勤めょうた。
県の普及員は2年たつと試験を受けれるんで、役場の人がそっちの方がええから受けてみい、ゆうことで受けたら通た。
県から勤務場所は大江村役場の辞令を受けて大江にいっとった。
村農業や農家の個人の指導をするのが仕事。
個人や
村の常会にも呼ばれる。
村の人とわあわあいえる人間でないと務まらん。


兵役中の給料
(兵隊にいっているとき=休職中に、岡山県農業普及員の給与は?)
8割くらい送ってくりょうた。ありがてぇことじゃ。


城見村会議員

報酬はボランティア(程度)。
カネをもらうようになると、カネをもっとる人しか出れんようになる。
(役得というほどでないが)
議員で、東京の武徳さんのところにいこうやあ、ゆうことで行った。
議員宿舎に泊まったんで宿泊費はいらん。
観光は武徳さんが案内の世話をしてくれ
議員会館でいっぺん昼飯を御馳走になった。
汽車代を出したんと、観光費と弁当代を出した。


城見の駐在所
戦時中からおった。(寝泊りしていた)
途中、今の国道へ変わった。

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格納品

2016年06月19日 | 父の話

談・2000.9.16

格納品
食料品のことじゃ。穴を掘って隠しとった。
(陸軍)病院でも横へ穴を掘って食料品を隠しとった。


岡山空襲
(戦時の岡山陸軍病院
将校・・40、 下士官・・36、 兵・・ 92。計168人 看護婦数・・不明。
その年、国立岡山病院となり、練兵場横にあった病院棟は戦災で全焼。)
患者はよその病院へ送り。ワシは本院へ変わった。


部隊の解散
まだやる!決起する!ゆうのが、いちんち(だけ)さわぎょうた。


(HQの岡山は陸軍兵舎
弾薬処理で
和気、林野、玉野、笠岡など出動した。)
林野にはいちばん多かった。笠岡はしらんのう。


岡山の兄貴と井原の兄貴(実兄でなく義兄。母の兄弟)を呼んだら、二人とも自転車で
来た。
軍靴や着るもん、服やズボン
自転車の前に靴はさげてのう。
あの時分はなんもなかったんじゃけいのう。


復員
(隣村の金浦出身の)経理の軍曹が運んでやる言われて、病院の車でもって帰った。
菓子の袋と米を一俵積んだ。



町からの買い出し
(交換物は)
芋がいちばん多かった。次にナンキン。


金属類供出
(この年(2000年)金属供出とされていた「人見絹江のメダル」が出てきて話題になった。)
役場の裏には積んだままの金属(かね)があった。
あれを処分してええ目をした人がおった(どこの町村でも)。


(昭和22年ごろ、戦後の犯罪がピーク)
なんもなかった。


(ヒロポンや麻薬)
(城見は)関係ない。


失業対策
これゆうもんはなかった。してない。


PTA
父母の会は戦前なかった。
学芸会や参観日のような、個人対応の連絡しかなかった。
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茂平の出身者

2016年06月18日 | 父の話


談・2000.9.16


(茂平の出身者)
国会議員・・野田哲さん
県会議員・・おらん
大学教授・・・ひよっさん方
軍・・大尉くらいの人。


戦後(昭和22年ごろ)の新旧の貨幣交換
農協や郵便局がおもで(xx銀行でなく)、手続きは行かんでも向こうで通帳を変えてくれとった。


農地解放・・・作りょうた人が、(その土地を)買うた。
地主・・大地主はおらん。


水落の水晶・・だいしょう出ようた。


有名な軍神は・・・爆弾三勇士と一太郎とラッパの木口小平。
慰問団・・舞台で漫才したり音楽して帰った。みんな寄って聞いた。
玉音放送・・やれやれじゃ。泣くのはかっこをつけただけじゃ。
空襲警報・・桃の袋かけで一番忙しい時じゃ、鳴りょうても(作業を)ほっとかれん。「来ょるのぉ」ゆうだけじぁ。

犬と猫・・日本でも終戦後、犬と猫を殺して食べとる。捨て犬じゃ。捨て犬が多かったんじゃ。猫は(味が)おえん。

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鋳掛屋

2016年06月18日 | 父の話

談・2002.10.14


鋳掛屋
鍋ややかんを直しにきょうた。
してるようになってから来んようになった。

こうもりがさ直し
蝙蝠傘を直す人もきょうた。


かたくり
風邪の時、子供は食べやすいので砂糖を入れて食べさしょうた。


とうやん
(恵風荘ができる前、旧病棟にとうやんと呼ばれる男が住んでいた。)
そうじゃ。番をしょうた。それに死んだときにゃあ穴を掘ってくりょうた。


餅つき
コメを2日くらいかしとく。(水につける)
うむしなら前の日、餅なら2日くらい。
いそぐ時には煮え湯につけとく。
朝早うおきてせんと、湯を煮え立ってうむすまで1時間はかかる。


遠足の弁当 
(母)
昔はようしょうた。朝早ぅ起きて。
遠足、運動会・・・。
弁当屋がなかったけぇなあ。


ゴマをする
(母)
風味がええけぇ。
なます、あえもの。
ゴマを入れにゃあおいしゅうなかりょうた。


豆腐屋
(母)
朝は豆腐を作り、それが終わったら
おじさんは、芋飴を作って売りに来る。
おばさんは、てんぷらを仕入れて「どうですか」ゆうて歩きょうた。
芋をもって行けば飴に変えてくりょうた。


金浦の小麦屋
(母)
金浦の人が小麦を煎餅に変えてくりょうた。
そりゃあ、あんた(管理人)らが子供の時じゃ。
ポン菓子
もようきょうた。

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農閑期

2016年06月17日 | 父の話

談・2002.10.14


農閑期

男は冬は剪定、女は袋貼り。
剪定くずを拾う
牛は藁ばあ、芋を混ぜる、芋つるの葉、大根の葉、糠、コメの磨ぎ汁、
喉を詰まらせんように気を付け、かわいがりょうた。
(糞は?)人間の方がずっとええ。
人間のでも、田舎よりも町の方がよう効く。

母・戦争中に一回芋つるの葉を出せいいわれて、出したことがある。
この前テレビで村おこしで佃煮にして食べるのをしょうた。


造船場所

(平の漁船の新造はどこで造っていたか?)
みな金浦の造船じゃ。
うちの達磨船もそうじゃ。


国道二号線の労務宿舎

(用之江の旧・隔離病棟が国道二号線の工事の作業員宿舎となった。
茂平から小学校への通学は、その宿舎とは30~40m離れてはいたが、生まれて初めて見るよそ者だった)
PTAでも心配した。
子供には個人行動のないように。
通行するときは親も注意するように、という取り決めをしとった。


銅山の井戸

(水尻の裏側に、おいしいと言われる共同井戸があった)
あれは銅山の人が昔掘った。
銅山の人はだれでも飲んでもええ井戸じゃった。
個人の井戸はどこの家も皆、塩辛かったんで、「飲む」水を汲みにいきょいうた。


食器洗い
(母)
昔の人は灰がええようた。
洗剤はなかった。
油もんは卵や灰をつけてみがきょうた。
ぴかぴかになりょうた。

油もん以外は水か湯で落としょうた。
よごれがひどいのは「いしのこ」を使ようた。
よく落ちるが、使うと傷むものもあるので気をつきょうた。
どこにも「いしのこ」を買ぉとった。
コメを搗くにもいしのこを使ようた。

鍋には炭、消し炭を使ようた。堅炭でも。
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戦死者の骨

2016年06月17日 | 父の話

父の話・2002.10.14

脚の骨を入れて、頭の骨を入れていた。が
しまには焼けても全部焼けん、焼けた人の骨だけを入れていた。
(遺族から)骨が違う言われることはないので、一人の人間の骨を死者ぶん分散していた。
進軍中の死者、はそこへ(焼かないで)埋めて行く。
駐屯する場所で焼く。そこで死者分を分散して送る。


死者の報告

部隊の中隊長が人事をもっとる。処理は中隊でする。
中隊長が骨箱に名を書く、「何々の戦闘で戦死した」

男が女(おなご)を探しにこっそりゆく。ごつんとやれれて死ぬ。
年上の兵にはそうなんがだいぶとおった。
戦闘の状態を作って「何々討伐戦において勇敢に戦死した。。。」という報告書を書いて送る。

火葬
いっぺんに大勢焼く。焼けた人、焼けたところを送る。
人の骨でも嘘をして送っとる。

戦病死は、
何何作戦中に戦病死。当たったら戦死。


おじいちゃん(父)は、
なんども、「もうしめいじゃ」と思うたが、
敵もそうで引き上げて助かった。攻められたら死んどった。
万がええ。

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