しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

白壁は危ない、壁を塗る

2021年08月16日 | 昭和20年(終戦まで)
「井原市史2」 

昭和20年6月29日、午前2時頃より、井原の地から多くの人が遠く激しい岡山大空襲を見詰めており、井原町からも警防団が弁当持ちで出動していった。
7月に入ると、井原町では連日朝昼、夜の別なく空襲警報が鳴り渡り「気モオチツカズ」空襲が現実のものとして迫り、荷物の疎開、自宅内に穴を掘りブリキ箱を埋け食器類を入れた。
蓄えていた食糧を台所のコンクリートに詰めるなど、緊張感が伝わってくる。
8月8日夜10時ごろ、空襲警報が鳴って、火の手、黒煙のあがる福山空襲の様を見ていた。
13日にはいよいよ空襲の標的と身に迫る危険を避けるため、ベンガラを購入して松根油を溶いて白壁を塗った。

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「岡山県史 近代ⅲ」
飛行機から地上を眺めると白色のものが一番目にはいるので白い衣料は危ない。
白または白色に近い壁・屋根・土塀などは都市・山間部を問わず早急に対空迷彩を実施するよう呼びかけられた。

迷彩にはコールタールがよいが入手困難なので松根油採取時の廃澤・煤・松炭などを布海苔に混ぜて塗れば相当の効果があるとされた。
いれがない場合は泥土を塗り、絶対に小型機の目標にならないよう指示され、県下のすみずみまで迷彩が督励された。



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戦時中の食生活

2021年08月16日 | 江戸~明治

「金光町史」

戦時中の食生活

日中戦争が始まり、食べものが不足し、配給制度ができた。
金光町のほとんどが農家であったので、十分とはいえないが食べるぐらいのものはり、保有米を残して、あとはすべて供出した。
配給の主体は主食で、醤油や酒も配給であった。
農家でも米は小米を使い、半麦飯であった。
サツマイモ、ジャガイモ、南瓜も主食代わりになった。
農家では自家栽培ができたので有利であった。
サツマイモはたくさんゆでておき、ご飯代わりに食べた。
またタマネギと南瓜をよく炊いて食べたが、甘い物がなかった時代なので、甘くておいしかった。
昭和23、24年ごろまで食糧難は続き沙美まで行って樽に海水を汲んで来て煮詰め、塩の代わりにしたこともあった。
また、砂糖の代わりにサッカリンも使用された。
戦中戦後の食糧難とはいえ、自給できる田畑をもっていた金光町では、
芋の茎や野草を食べるほどの極度の食糧難はなかったようである。

・・・・・・
「日本流通史」 石井寛治 有斐閣 2003年発行

食糧不足
極度の食糧不足に対応するため、国民は食べられるものは何でも食べようということになった。
雑誌『生活科学』1943年3月号は、昆虫で食べられそうなものを紹介している。
トンボの幼虫やかいこのサナギ、いなごの成虫。
カミキリムシやゲンゴロウまで、いったいどうやって食べるのであろうか。
これではまるで江戸時代の飢饉の庶民の姿である。

・・・・・

「岡山県史 現代Ⅰ」

1944年(昭和19)より未利用食糧の供出運動が起された。
さらに1945年11月に岡山県は未利用食糧資源集荷促進要綱を定め、
カンショ茎葉・葉柄・ドングリ・大根葉などの米の代用品としての供出出荷が促進された。
なお1946年1月からは、
ミカン皮・クズ根・クズ澱粉、同年7月からは
ニンジン葉・ゴボウ葉・里芋葉・カボチャ種子・ヨモギ・茶がらなどが
米の代用品として追加指定され、政府買い上げ対象となり供出された。
これらの未利用食糧は主に乾燥され出荷され、
製粉して干パンやパンに混入されたが、
特に芋づるやドングリ・米ぬかなどの多く混入されたパンなどを「ドンツク」または「ドンツクパン」と呼び、
味はともかく多くの人々に親しまれた。

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・・・・・

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沖縄戦から終戦へ

2021年08月16日 | 昭和20年(終戦まで)



「岩波講座日本歴史21近代8」  岩波書店 1977年発行

沖縄戦

1945年はじめいらい、国をあげて準備に狂奔しつつあった本土決戦が、
もし実現したらどうなったかを、まざまざと示したものが沖縄戦の経過であった。

決戦主義から持久戦主義に転じ、
沖縄本島南部の塩尻地区に集結して戦略持久を策することにした。
県民の保護をはじめから計画しなかった軍は、逆に作戦上の必要から県民の労力も資材も根こそぎ動員した。
さらに直接戦闘力を補うため一般民衆を動員することも徹底して行われた。

1944年7月在郷軍人を中心とした市町村の部落単位で防衛隊を編成し、軍の直接指導下に陣地構築や輸送任務にたずさわっただけでなく、直接戦闘にも参加させた。

1944年12月からは中学校生徒の戦力化も計画され、
中学校上級生は直接軍に配属して戦闘に従事し、
中学校下級生は通信教育を受けて通信員に、
女学校生徒は看護婦教育を受けて看護婦にすることが計画された。
1945年3月沖縄本島への艦砲射撃がはじまると、計画に沿ってそれぞれ動員された。

沖縄が戦場化した最初は1944年10月10日の大空襲であった。
レイテ上陸を前にして、この日沖縄本島を攻撃して飛行機や船舶・軍需品に大損害をあたえたが、特に那覇市の住宅90%が焼失した。

1945年4月1日アメリカ軍の沖縄本島上陸がはじまる。
第一日目に早くも橋頭堡を確立。
大本営は陸海軍の航空機特攻や、戦艦大和以下の海上特攻を計画し、第32軍の攻撃を促した。
この圧力で第32軍は2回にわたり出撃したが大損害を受け、4月中旬以降持久戦に移った。
6月22日軍司令官牛島満中将が自決し、組織的抵抗を終った。
この戦闘の期間、住民の大部分は戦闘にまきこまれた。
大部分が戦死か自殺をした中学生、女学生たちをふくめて、約20万人が犠牲者となた。

沖縄戦の悲劇は戦闘による犠牲にとどまらず、友軍と信じていた日本軍に殺された例の多いことによって倍加されている。
はじめに上陸した慶良間諸島の渡嘉敷、座間味二村では、
村民は足手まといだとして守備隊によって集団自殺を強要され、
山中に逃げた者はスパイ容疑で惨殺された。
こうした例は本島でも多く、明らかに県民と知っていながら『スパイ嫌疑』で、
軍刀・銃剣・小銃で殺された。
沖縄の守備軍が、県民を利用できるだけ利用して、これを戦火の中に遺棄した。

本土決戦の基本的な考え方は、
「皇土の万物万象を戦力化し」「一億特攻」の攻撃精神で迎え撃つというもので、
まさに全国民を玉砕の道連れにする以外の何ものでもなかった。
戦場から住民を避難させるという考えは、輸送力の欠如から実行困難であり、
また避難させたとしても、それを保護する手段がなかった。
国民は動けるもの全てを戦闘に動員し、足手まといになる老人や幼児は見捨てる以外にないというのが実情だった。



本土決戦

生活の崩壊と戦意の低下

一億国民を本土決戦に総動員しようとするこのとき、
支配者の期待したような国民の戦意の燃え上がりはまったくみられなかった。
それは、国民生活そのものが崩壊に瀕していたことが大きな原因である。

生産力の崩壊と海上輸送の途絶の影響を受けたのは、とくに食糧の供給である。
1945年の農業生産は完全に破壊することになってといってよい。
軍隊への根こそぎ動員、
肥料の欠乏、
海上輸送の途絶、
本土の軍隊と工場要員の需要増は、食糧事情を窮迫させた。

支配者が憂慮したのは、国民の生命や健康がおびやかされるということそれ自体ではなかった。
その結果として飢餓状態が現出し、治安上楽観を許さない事態が生まれることであった。
主食の圧迫に加えて副食物も調味料も極端に供給が低下した。
その他、衣料品や靴は零に等しくなった。
食糧の不足以上に国民生活に破壊的影響をあたえたのは空襲の被害であった。
6月以後の中小都市への空襲被害はとくに深刻であった。
空襲を受けると、市民はいっせいに市外に退避し、消火活動に当たる者がなくなって被害はいっそう大きくなった。
工場では労働者が離散し、欠勤率50%のところもあらわれた。
最後の土壇場になって、国民は自らの生命を守るのに、軍や政府の強制にも応じなくなったのである。
空襲にたいする日本軍の反撃のないことも、国民の不信不安をたかめた。
生活の不安、生命の不安から、国民の戦争にたいする疑問と批判はようやく深刻となっていったのである。


士気の低下、戦意の喪失は一般国民の間の現象だけではなかった。
本土決戦に備える270万の軍隊の中でも、士気の頹廃、軍紀の崩壊が大きな問題となっていた。
新編成部隊は素質劣悪・訓練未熟でとうてい戦力として期待できないだけでなく、
宿舎、栄養の不足から兵士の体力気力も衰えていた。
兵器も行きわたらなく、毎日が陣地構築のための壕堀りか、食糧あさりに明け暮れて、教育訓練の余裕もなかった。

民心の離反、士気の低下にたいする対策は、一層むきだしの弾圧政策をとる以外になかったといってよい。
本土決戦体制の強化、空襲の激化に中で警察は民心の動向に対する偵知をますます深め、治安の確保に強硬手段をとりはじめた。
空襲の被害よりも民心の動揺を恐れ、
内務省は5月29日、各県警部長宛て民心の動向危惧の情勢留意の電報をした。
軍部は3月16日、憲兵隊の大規模な拡張をし、思想警察の強化をした。


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本土決戦

2021年08月16日 | 昭和20年(終戦まで)

「日本歴史21」 岩波書店 1977年発行

本土決戦が全国民を死のみちづれにすることが明らかでありながら
戦争指導者たちは具体的な戦争の終結への動きを示さなかった。
それが始まるのは、本土空襲が激化し、民心の離反が明らかになり、体制存続の危機を感じ取った時以降である。

鈴木内閣になってから始められる対ソ工作も、最初は軍部の希望するソ連の参戦阻止が目的であって、直接戦争終結をはじめるのは6月中旬以後なのであった。

4月5日、ソ連は日ソ中立条約の不延期を通告してきた。
前年の11月7日の革命記念日でスターリンが日本を侵略国と呼んだことと、
45年2月末頃からソ連の極東兵力の増強が目立ちはじめたこととあいまって、
ソ連の参戦の危険がせまっていることを陸軍は強く憂慮しはじめた。
5月にはいると兵力105万、飛行機4.500機、戦車2.000両と増加していた。
関東軍の兵備はとうていこれにたちうちできない状態になっていた。
飛行機、戦車、火砲などをほとんど失って、ソ連軍の攻撃に耐える力を持たない状態であった。

ソ連参戦に対して軍事的対抗手段をとりえない以上、陸軍としてはソ連の参戦防止がなりより望まれるところであった。

天皇が急に戦争終結に熱心になるのは6月8日の御前会議以後のことである。
ドイツの降伏、
沖縄の失陥、
東京の大空襲、
宮城の焼失などの情勢の急展が作用していることは事実であろう。
天皇の世界情勢や戦局についての認識は相当に甘かったようである。

対ソ交渉にさいして何よりも日本側の条件として、国体の護持すなわち天皇制支配体制の維持こそが全支配階級の共通した一致点であった。
7月6日スイスの加瀬公使から、ソ連の参戦が必至の情報をあったが、
戦争指導者たちは、ソ連の参戦をおそれ、希望的観測によりかかっていたのである。

7月27日、ポツダム宣言の内容を日本当局が知った。



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ゼロの文学

昭和20年8月15日戦争は終わった。
文学の自由は復権した。
荷風・白鳥・潤一郎らの老大家がまず復活し
執筆不能の状態にあった中野重治・佐多稲子・宮本百合子ら旧プロレタリア文学の流れが動き始め、
野間宏・椎名鱗三・武田泰淳・三島由紀夫の戦後派、
坂口安吾・石川淳・太宰治・織田作之助などの新戯作家といわれる人たちが登場し、文学は何十年かぶりで、その自由をかくとくした。

太平洋戦争下の約5年、そこには「芸術の名においても」また「人間の名においても」文学と呼ばれるものはなかった。
それは「ゼロの文学」だったのである。
「太平洋戦争」 世界文化社 昭和42年発行

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本土決戦 (丸谷)

2021年08月16日 | 昭和20年(戦後)

「星のあひびき」 丸谷才一  集英社  2010年発行

アメリカ軍は九州上陸を「オリンピック作戦」と名づけ、
昭和20年11月1日におこなふことにしてゐた。
関東攻略は「コロネット作戦」で、翌年3月1日開始の予定だった。

45年5月のドイツ降伏後にアメリカ兵にしばらく休養を与えなければならないし、
日本の9月は台風、11月、12月は寒さがある。
そこで志布志湾、吹上浜、宮崎沿岸の三方面から同時といふことになる。

日本軍の指導者たちは知性を軽んじたし、
国民に対しても君主に対しても責任感が乏しかった。
思考が非論理的で、数値になじまなかった。

アメリカ軍は地形が改まるほどの艦砲射撃を一週間つづけ、
上陸地点で日本軍がまったく抵抗できないようにしてから上陸する。
サイパンにおけるこの体験で、同じことを九州でも関東でもされることはわかっていながら、
日本軍の上層部は本土決戦とか一億玉砕とか叫ぶのをやめなかった。

長野県松代の地下に設けた大本営は、
天皇と内閣を巨大な地下壕に幽閉していつまでもこの国を支配したいといふ空想的願望のための装置である。

・・
保阪正康は「本土決戦幻想--オリンピック作戦」で、
8月15日に降伏しなかったら、
日本と日本人はどうなってゐたかといふ、
あり得たかもしれない歴史をつきつけるのだ。

保阪によれば、秋になっても降伏しない日本はもはや国家の体をなしてゐない。
天皇や鈴木内閣の意に従はうとする終戦派に対し、
本土決戦派がクーデターを起こし、後者が勝てば、
天皇および次期内閣が松代に軟禁される。
当然、
ソ連軍は北海道と東北に侵入する。
しかし決戦派は諦めないかもしれぬ。

10月25日(11月1日のマイナス7日)にはアメリカ戦艦軍による艦砲射撃が開始。
10月27日には米軍が、防備の手薄な甑島などに上陸。
11月1日、侵攻部隊が浜辺に近ずくと、特攻機が突っ込む。
艦隊の集結してゐる所へは人間魚雷などで攻撃。
その他の特殊潜航艇や攻撃艇などが特攻作戦をおこなふ。

上陸した米軍との地上戦になると、米軍戦車にくらべて日本軍の戦車および対戦車砲ははるかに劣弱。
火炎瓶、手投爆雷による特攻作戦をおこなふ。
このあとが民間人による戦闘で、
大本営の「国民抗戦必携」は、
刀、槍、竹槍、鎌、ナタ、玄能、出刃包丁、鳶口を用ゐてアメリカ兵の腹部を突き刺せと教える。

本土決戦となれば敵が近くにゐるから特攻作戦に有利、といふのが軍人たちの理屈だったらしい。
日本軍上層部の、体面を重んじる官僚主義が最も悪質な形で発揮されたとき、
年少者や民衆にこんな形での抵抗戦を強ひる発想が生まれた。


・・・



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比島決戦の歌、西條八十「私の履歴書」

2021年08月15日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信  展望社 2012年発行


♪いざ来いニミッツ マッカーサー

昭和20年1月、マッカーサー率いる米軍がフィリピンのルソン島に上陸した。
この期に至って、ラジオの国民合唱で良識を疑わざるを得ない「比島決戦の歌」が流し始めたのであった。

作詞界の大御所西條八十と、軍歌戦時歌謡作曲の第一人者古関裕而が作曲していた。

「いざ来いニミッツ マッカーサー」痩せ犬の遠吠えに似た品のないこのフレーズは、軍部将校から敵将を入れてくれとの要望に発している。


西條八十は、「私の履歴書」の中で戦後に次の通りに述べている。

終戦直後、ぼくが疎開地で読んだ新聞紙には西條八十が進駐軍によって絞首刑にされるだろうと書いてあった。
それはぼくが読売に発表した「比島決戦の歌」の中にある、
出て来いニミッツ マッカーサー
出てくりゃ地獄へさか落とし
というひどい詞句のためだと添え書きしてあった。
それを読んだ読売記者で評論家の吉本が、ぼくに手紙をくれて
「あの繰返句はあなたの創作ではありません。
参謀本部の軍人たちが創作して無理に入れさせたものだ。
いざという時には、ぼくが生証人になります」といってくれた。
それでもぼくは一時多少の覚悟はしていたが、幸い事実にならずにすんだ。



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公職追放 「好ましからざる」21万人

2021年08月15日 | 昭和21年~25年
「昭和時代 敗戦・占領・独立」  読売新聞  中央公論社 2015年発行

公職追放 「好ましからざる」21万人

GHQによる公職追放は1945年10月、特高警察関係者ら6.000人の追放から始まった。
同年末には軍国教育を行った教員の追放も行った。
これらの追放処理はポツダム宣言第6項〈日本国民を欺瞞し、これをして世界征服の挙に出の過誤を犯さしめたる者の権力及び勢力は、永久に除去せられざるべからず〉に基づいていた。
追放が本格化したのは46年1月4日、日本政府はGHQから「公職追放に関する覚書」を受け取り、驚愕する。
追放されると、その時の地位を追われるだけでなく、将来も「公職」に就けず、退職金や恩給、さまざまな手当ても受け取れなくなった。

GHQは「間接統治」方式を採用したため、公職追放でも、該当人物か否かをまず日本側に審査させ、これを了承するという形をとった。

・・・




交渉追放「奇々怪々」政治家パージ
鳩山一郎

戦後初の衆院選で第一党になった自由党の総裁、鳩山一郎は、首相就任を目の前に、
突然、公職追放された。
日本側の審査委員はシロと判定したが、衆院選前に打ち出した「反共スローガン」が左翼陣営を刺激した。当時朝日新聞編集局長だった細川隆元は自著で「でっちあげられたもの」と書いてある。
石橋湛山
東洋経済新報社の社長だった石橋湛山は第一次吉田茂内閣の蔵相に抜擢された。
日本側はシロだったが、民生局は強権発動した。
面政局は後年「戦前軍部を批判したリベラリストであるとは知らなかった」と証言したという。



作家たち
G項=その他の軍国主義者や超国家主義者は、
軍需関連産業の役員や、国粋主義を鼓舞した言論人などを追放するための強力な武器となった。

新聞・出版社から約1.000人が追放。
企業人では、
東急電鉄の五島慶太・・・東條内閣の運輸逓信大臣
阪急の小林一三・・・近衛内閣で商工相
西武鉄道の堤康次郎・・・衆院議員
朝日新聞の緒方竹虎
読売新聞の正力松太郎
ジャーナリスト・評論家
徳富蘇峰
山岡荘八
尾崎士郎
菊池寛


無名の人々
大政翼賛会の支部長に自動的に就任していた市町村長が、D項=大政翼賛会などの有力分子)を適用されて軒並み対象となった。
就職もままならず生活に窮した多くの人々とその家族にとって、公職追放はまさに「格子なき牢獄」だった。


公職追放を受けたのは約21万人で、うち16万7千人が陸海軍人、
これに対し、官僚は1.800人程度。
占領軍の間接統治要員として温存されたためで、
これが戦後の官僚主導政治の要因になる。

GHQは昭和23年5月パージ終了を宣言した。




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終戦直後の指令②公文書焼却  文書を焼く煙が幾日となく続く

2021年08月15日 | 昭和20年(戦後)
終戦後、日本の役場が行った最初のことは文書を焼却したことはよく知られている。
以前読んだ何かの本には、終戦後の郡役場の官吏が自転車に乗って、管轄内の町村役場を回って口頭で指示したとあった。
役人は、こっそりと、証拠を残さないように焼いた。

この本の↓、著者は参謀本部の課長や阿南陸相の秘書官を務めた人。
巻頭に書かれている。

「太平洋戦争陸戦慨史」 林三郎  岩波新書  1951年発行

本書では、太平洋戦争間における陸軍統帥部の動きにつき、
「当時はこうであった」ということを、忠実に伝えようと私は務めた。
資料の収集と利用には非常な苦心を要した。
というのは、ほとんど大部分の資料が敗戦とともに焼かれてしまい、
書中の記述については、見る人によってはなお不備な点があるであろう。


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「福山市引野町史」 引野町史編纂会 ぎょうせい 昭和61年発行

引野村

昭和20年11月2日、連合軍歩兵大隊1.000人がノートン隊長に率いられて大津野海軍航空隊に進駐した。
幹部宿舎として戦災を免れた数軒が接収された。
図書・文書・什器類を焼く煙が幾日となく続き、昨日まで祖国の光輝ある歴史を物語るものとされた忠魂碑の類も続々と棄却されていった。

進駐軍を迎えて困ったのは便所であった。
市は市内9ヶ所に進駐軍用便所を造ってこれに供した。
もちろん水洗であったから、占領軍専用の水道管を敷設したりした。

今日になって悔やまれるものの一つにはこの時期における文書類の過度なまでの焼却廃棄で、
戦災による損傷焼失とともに、悔やんでも悔やみきれない文化財の喪失がその中に含まれていた。

昭和21年5月24日、米軍に代わって豪州軍が進駐した。
絶対勝者の進駐にしては総じて紳士的、特に米軍の場合がそうだった。




「特高警察」 萩野富士夫 岩波新書 2012年発行
特高警察
8月15日前後から、多くの特高の関係資料が証拠隠滅のために焼却された。
内務省では各県に奥野誠亮や原文兵衛らを派遣して、文書の焼却などを口頭で連絡している。



「戦争調査会」 井上寿一著 講談社現代新書 2017年発行


戦争原因の追及はむずかしい。
敗戦国は責任回避に走り、証拠の隠滅を図る。

陸軍は早くも8月14日の午後から機密文書の焼却を始めている。
翌日正午の「玉音放送」後、中央官庁街を見渡すと、
外務省・内務省・大蔵省から公文書の焼却による煙が立ち上がっていた。



・・・・・・
(転記先・不明)

焼却文書

証拠隠滅を図る目的で焼却された文書が発掘された


日本陸海軍は敗戦とともに多くの公文書を焼却処分にした。
戦争犯罪追及に直結するからである。
このことは後の実証的な歴史研究に大きな障害となった。
ところが、発掘調査では時としてその焼却された公文書や書籍類の焼け残りが発掘されることがある。

東京都目黒区大橋遺跡等の調査では、陸軍の公文書や書籍類が多量に発掘された。
これらは、ゴミ穴・防空壕・地下壕などから出土したものである。
いずれも昭和20年8月15日の敗戦にともなって、証拠隠滅を図る目的で陸軍によって組織的に焼却されたものであったが、
公文書の綴りは大部なために、また書籍も比較的厚いために、完全燃焼に至らず残ったものである。

出土状況はガラス瓶、炭化した木材と共に検出された。
文書類は一気に投じられたため、多くの文書が焼けたものの一部は原型を留め文字の判読できるものが多々みられた。


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「公職追放」と「追放解除」 (岡山県)

2021年08月15日 | 昭和21年~25年
「岡山県史現代Ⅰ・公職追放と選挙」
公職追放

いわゆる公職追放は、非軍事化・民主化のための最も重要な占領政策の一つであった。

昭和20年10月4日に連合国総司令部は、治安維持法その他の自由抑圧法規の廃止、政治犯の即時釈放、思想警察の廃止、内務大臣をはじめとする特高警察官の罷免などを使命した。
岡山県では当時の県警部長、特高課長以下特高関係警察官69名が罷免された。

愛国的労働団体の役職員の労働界からの追放。大日本産業報国会、大日本労務報告会、日本海運報国団などの主要役職員が解任された。

第一次追放
ABCDEFG(前述)の一切の者を公職から罷免し、かつ官職に就かせないように命じた。
当時公職にあって、明らかに覚書に該当すると思われた者の多くは、自ら辞職した。
岡山県知事・安積徳也も、大政翼賛会県支部長の経歴があり、他の27人の府県知事らとともに1月25日辞職した。
公職適否審査委員会は、昭和22年1月4日までに3759人の審査を行い264人を該当者と判定した。
以上第一次公職追放の該当者1067人のうち807人が公職から罷免され、260人が政府機関への就職を禁止された。

第二次追放
総司令部は公職追放を地方と経済界まで拡張するよう命じた。
昭和21年10月30日の合同新聞は「公職追放範囲拡大の声におびえて岡山県下の町村長が続々辞表を提出、供米その他の地方自治の運営に支障を来しつつあり」と報じている。
昭和22年1月施行令が公布され、追放が実施されることとなった。
これによって県会議員は主要公職とされ、該当者は退職させらることがはっきりした。
33議員のうち24名が該当するとわかり、審査を待たずに辞職した。
中央公職適否審査委員会は昭和23年5月10日に廃止されるが、それまでに57.116人を審査し、3633人を該当者と決定した。
県選出の犬養健はG項該当者と判定され、立候補できなくなった。


地方公職適否審査委員会
地方には県と5万人以上の市に委員会が置かれた。
全国の審査総数は651.000人。該当者は4081人であった。

潜在的該当者の追求
公職に就いていないため、指定を免れている潜在的該当者にも指定が行われることになった。
193.000人のが指定を受けた。
岡山県地方課が、県内の潜在的該当者を取りまとめたのは、大政翼賛会支部長610人、大政翼賛壮年団長735人、在郷軍人分会長1508人、大政翼賛協力会議長353人、極右団体32人、昭和17年総選挙の翼賛会推薦議員11人、同推薦団体16人、計3265人。このうち死亡264人、既指定25人、未復員41人であった。




「岡山市百年史下巻」 岡山市 ぎょうせい 平成3年発行

明らかに覚書に該当すると思われた者の多くは、自ら辞職したが、
岡山県知事安積得也も大政翼賛会県支部長の経歴があり、昭和21年1月25日に辞職した。

昭和21年11月8日政府は「地方公職に対する追放覚書の適用に関する件」を発表した。
すでに地方政界には波紋が広がっていた。
合同新聞は、「公職追放範囲拡大の声に怯えて岡山県下の町村長が続々辞表を提出」(昭和21年10月31日)
「近く発令される公職追放令該当予想町村長は県下365町村のうち、
かつての翼賛会支部長225人、翼壮8人、計233人。61%の多数にのぼり、同日までの辞表提出者は124人で、許可済が72人、保留52人。
該当しない人は昨年8月15日敗戦後就任したものが大部分を占め、
4市も津山市長辞任、倉敷市長辞表、橋本岡山市長は22年2月22日一身上の都合で退職し、翌年公職追放になった。

22年1月4日、普通公職にあるものでも退職させられる、ということになった。
(※県内等の追放者数は記述されていない)





「金光町史」 金光町 平成15年発行

公職追放

内務相の解体、特高警察の廃止、
手始めは、戦争指導者の各界から除去するという公職追放である。
特高警察の追放が始まりとなった。
昭和20年10月30日、教職員の追放に関する覚書が発せられた。
12月14日には産業報国会、労務報告会などの主要役員が解任された。町内に結成されていた各種報告会も解散に向かった。
12月15日、国家神道に対する政府の保証・支援・監督等が廃止。
昭和21年1月、大政翼賛会の活動者が対象となり、岡山県知事をはじめ県内で該当者1.067人のうち807人が公職から罷免された。
11月8日、「地方公職に対する追放覚え書」で、翌22年初めまでに県内の町村長は122名が辞表提出した。
金光町では5期務めた町長が辞任した。




「倉敷の歴史 18号」 2008年発行

聞き書ぎ昭和史・私の歩んだ道

叔父も親父も神職でしたので東京の国学院大学に進学しました。
ルソン島のジャングルの中、食べるもの、薬もなく、みんなばたばた行き倒れになっていきました。
昭和20年9月に士官から「日本軍は負けた、戦闘任務を解除した」、で復員した。

復員してきて、とりあえず召集を受ける前に勤めていた学校に電話で挨拶したら、
君は追放がかかっているから、学校へは出てくるなと言われたんです。
公職追放も知らないし、理由も聞かされてないんです。
ただね、私は国学院を出ているでしょう。
そこが引っかかったのかもしれないですね。
それで野菜売りの商売をしました。

6年間追放を受けていてね、それから昭和26年に玉島高校に勤めました。
兵隊上がりで動くのは苦じゃなかったから、考古学の発掘調査をよくやりました。





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追放解除

「岡山県政史」  岡山県 昭和44年発行

公職追放の解除

昭和25年6月に朝鮮戦争が勃発し、国際情勢は急速にその様相を変えた。
とくにわが国には、その影響が大きく、GHQの占領政策は、日本政府の国連への協力決定および
講和条約の早期締結の対応する挙国体制の必要などから転換されることになり、公職追放者の大量解除方針が伝えられるにいたった。
かくして、昭和25年10月の解除発表(本県関係者191名)を初めとして、翌26年6月(本県関係者2.300名)、
同年7月と解除がつづき、昭和27年4月の平和条約発効直前までに、全国の被追放者21万余人のうち20万余人の解除が行われ、
平和条約発効とともに公職追放はすべて消滅した。






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(昭和20年)八月十七日の開戦  

2021年08月15日 | 占守島の戦い
占守島(しゅむしゅとう)の軍の最高責任者は、笠岡市ゆかりの杉野巌旅団長であるが、物の本には登場しないことが多い。
最大の理由は、本人が書き残したり、語ったりすることがなかったからであろう。
北海道分割を阻止した功績から離れ、戦後は笠岡市で隠遁的な生活をされた。



「歴史街道 令和2年9月号」  PHP 2020年発行
八月十七日の開戦  早坂隆




樋口季一郎

8月15日を迎えても、戦争は終わったわけではなかった。
8月17日、
北海道に野心を持つソ連が、千島列島の占守島に上陸したのである。


占守島での自衛戦争

「ヤルタ密約」
米英ソによる「ソ連はドイツ降伏後3ヶ月後に対日参戦する」という密約が交わされていた。
日本はこのような国際社会の奸計に翻弄された。
占守島への不意打ちも、こした流れの中で始まった。

当時、第五方面軍の司令官となっていた樋口は、ソ連軍の侵攻を札幌の方面軍司令部で知った。
「断固、攻撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」と打電した。
ソ連の最高指導者であるスターリンは、釧路と留萌を結んだ北海道の北半分を占領する野望を有していた。
占守島を占領した上で、千島列島を南下し、一気に北海道に上陸する構想を有していたのである。





戦車隊の神様・池田末男
こうして占守島での戦いが始まった。
18日、午前1時過ぎソ連軍の上陸部隊は艦砲射撃の援護の下、占守島北端の竹田浜に殺到した。
竹田浜でソ連軍を迎え撃ったのは、村上則重少佐率いる独立歩兵第282大隊である。
竹田浜一帯は熾烈な戦場と化した。
村上少佐は四霊山への後退を余儀なくされた。
その後、ソ連軍は四霊山へ肉薄、日本軍は押され気味であった。
そんな戦況を一変させたのが、池田末男大佐率いる戦車第11連隊である。
同隊は、満州から移された虎の子の精鋭部隊であった。
午前5時30分、池田戦車隊は出撃。
占守街道を北上し四霊山へと向かった。到着したのは午前6時20分ごろである。
この池田戦車隊の活躍により、ソ連軍は大きな打撃を被り、深刻な混乱に陥った。
天候不良のため、ソ連軍は航空兵力を十分投入できなかった。
結局ソ連軍は竹田浜へと後退、池田大佐の戦死はあったものの、日本軍は以降も総じて同島での戦いを優位に進めた。

大本営の決定によって「終戦後の戦闘行為は、それが自衛目的であっても18日午後4時まで」と定められていた。
日本軍は優勢のまま、18日午後4時をもって積極的な戦闘を控えた。
以降も散発的な戦闘は起きたが、最終的な停戦が成立したのは21日であった。
武装解除は23日から行われた。
同島で捕虜になった日本兵はその後、シベリアなどに抑留された。

分断国家となる道から救った戦い

占守島の激戦によってソ連軍が足止めされている間に、米軍が北海道に進駐した。
こうしてスターリンの「北海道の北半分占領」という計画は完全に頓挫した。
樋口が自衛戦争としての抗戦を命じず、占守島が一挙にソ連軍に占領されていたとしたら、その後の日本はどうなっていたであろうか。
占守島における兵士たちの奮闘と犠牲がなければ、戦後日本はドイツや朝鮮半島のような分断国家になっていたはずである。
占守島の戦いは小さな島での戦いであったが、日本という国家にとっては極めて大きな意味を持つ戦闘であった。








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