しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

 天声人語 【昭和61年】

2023年08月25日 | 昭和51年~64年



「天声人語」 辰濃和男    朝日文庫 

新自由クラブ解散  8・13

『瘦我慢の説』を書いた福沢諭吉翁だったら、

新自由クラブ解散の報をきいてたぶんこう書いただろう。

新自クごとき小党は大政党に抗してその勢いを維持するよりも、大政党に合併することこそ安楽なるべけれどもなおその独立を張り続けたるは小党の痩我慢にして、

我慢のときにゆらぐことありたりといえども、一応は党の栄誉を保ちたれりというべし。

しかるにここに遺憾なるは自民圧勝の余波をうけし新自クにこと起こりて、

不幸にもこお大切なる痩我慢の大義を害しつつたることなり。

そもそも新自ク結党の趣旨は荒野にありて日本の政治の蘇生を願う一粒の麦たらんとし、腐敗政治の打破を志すにあり、

金権政治を断たんとするには痩我慢の主義によらざるべからず。

 

されどこの遇直なる初志を貫きえぬまま、時勢を見はからい、

手ぎわよく連立に走り、さてまた今日自ら解散し大樹の下にすり寄らんとするがごときはこれを何とかいわん。

一票投じたる有権者の落胆失望はいうまでもなく、公党の信義を損うたるの不利は決して少々ならず。

 

・・・

 

 

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天声人語 【昭和25年】

2023年08月25日 | 昭和21年~25年

・・・


元号廃止と紀元考


「天声人語」 昭和25年2・14  荒垣秀雄  

元号を今年いっぱいで廃止しようとの法案が参議院の文部委員会で練られている。
来年から二十世紀の後半期に入るのだから時期としてちょうどよいのだろう。

日本には元号と神武紀元と西暦の三つが雑居していて、世界史の理解に大きな妨げとなっている。
元号は大化の改新で西暦六四五年に初めて採用され、天皇一世に八回も改元があったこともある。

明治いらい皇室典範で一世一元とされて今日に至ったが、
天皇とともに年代を起算することは、豊臣時代、徳川時代などと支配者の名によって歴史を分類することと共にもうやめてもよかろう。
紀元の起こりは、明治五年十一月、その年を紀元二五三三年としたものだそうだが、神武紀元に大きなサバをよんでいることは今さらいうまでもなく、
これも名実ともに速やかに廃止すべきだ。

西暦は六世紀のなかばころから用いられ始めた。
キリスト降誕と伝えられる年とは四年ほどずれている。

紀元には世界中に五十種ほどあるそうだ。
初紀元の由来はとにかくとして、西暦はいま世界的に通用しているのだから、
日本を含めてこれを用いるのが合理的であり便利である。
神武紀元や昭和元号を捨てたからとて今さら”国威”を失墜することにもなるまい。

 

・:・


蠅・蚊・回虫の楽園

「天声人語」 昭和25年5・19  荒垣秀雄  

急に暑くなって蠅がめっきりふえてきた。
この不潔物の小運送屋がブンブンたかっている。

蠅退治の方法も相変わらず一匹一殺主義である。
大の男が蠅叩きをもって追い回し、
慈悲深い淑女は扇をあおいで、食卓の占める空間だけを不法侵入地帯に保とうと務める。

家庭菜園は野菜の副産物として蠅と回虫との養殖場でもある。
蠅と蚊と回虫を四つの島から追放する政策を掲げる政党があるなら、真ッ先に投票したい。

馬鹿なことを言うなと笑うなかれ。
こいつらを駆除するためには、下水を全国的に完備し、一切の肥しを化学肥料にし、
塵芥処理を完全にし、水たまりには殺虫剤を一日も怠らず注ぐだけのことはせねばならぬ。

蠅叩きや蚊帳を製造する中小企業が破産するような世の中になりたい、
といっても”放言”にはなるまい。

・・・

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備中杜氏

2023年08月25日 | 失われた仕事

 

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「寄島町誌」 寄島町役場 昭和42年発行 


備中杜氏のおこり

本町には現在80名の杜氏がいて、備中杜氏を出す市町村中その数において第一位を占める。
起源等について記録も無いが、岡山県工業試験場技師の研究によれば、古老杜氏より聞き及んだこととして、
「備中南部海岸地帯は山が海岸まで迫り耕地の少ない僻地であった。
農業のかたわら漁業に従事していた。
冬季になれば職を探すことに苦心していた。
元禄年間、通称忠吉は酒造技術を修得し、杜氏の職を得て、広島県忠海の酒造場を振り出しに各地で酒造技術者として就職していた。
その後、浅野藤十は酒造家業の有望なことを認識し郷党青少年を教育して灘方面へ出稼ぎしていた。
このように逐年酒造技術者の希望者は増加し、明治20年頃には約100名に達し備中杜氏の名称を冠した。
大正年間には、1.000名以上となり、県内は勿論、国内・海外も進出し、丹波・三津の両杜氏とともに、
その名声を博したものである」
と述べている。



杜氏研究

明治36年頃寄島町杜氏組合ができたといわれ、酵母の共同購入を行って酒造技術の研究に努め所謂備中杜氏の名声を博した。
最も盛んな頃にはその数120~130人に及び、朝鮮・満洲・支那にまで招かれたものである。
これに従う蔵人1.200~1.300人を数え、これ等の人々が得る収入も多大な額となり、町の経済に寄与した。
昭和33年には寄島町酒造研究会が結成され現在に及んでいる。
会員130名で、技術の研究、人格の向上、会員の親睦と福祉の増進、および後進の養成に努力している。

・・・

・・・

(父の話)

なおさんやたーさんが杜氏をしょうた。
冬の仕事で、寄島からの伊予の酒屋。
あやじさん(寄島や大島の)についていって杜氏になったら、夏から行きょうた。
ええ月給取りで、住み込みで
夏は時々見にいきょうた。


・・・


岡山文庫「岡山の民族」日本文教出版 昭和56年発行 より転記


備中杜氏


発祥地は笠岡市正頭(しょうとう)である。
備中杜氏の名を得るに至ったのは文化年間といわれている。
杜氏の出身地は笠岡市大島地区、浅口郡寄島町、倉敷市玉島黒崎が多く、
農漁民である。
冬季100日間稼ぎといい、農漁閑期を利用して、秋のとり入れがすむと、一人の杜氏が六・七人の蔵人を連れてゆく郷党的集団で、春の4月5月まで滞在する。
最盛期は大正7年の米騒動ごろから昭和初期である。
黒崎町の場合、香川あたりの酒造組合へ挨拶回りをするのが重要な職務の一つだった。
蔵人の賃金はかなりよかったが、労働はつらかったようだ。

・・・


「金光町周辺の民俗」  岡山民族学会調査報告  昭和46年発行

備中杜氏

鴨方町六条院地区は特に多く、若者のほとんが出ていた。
杜氏はそれぞれ数名から十数名の下働きをつれて、
岡山県はもとより中国・四国、中には九州や中部地方まででかけた。
昭和の初期を境に、次第に少なくなり、戦後はますます減った。

・・
備中杜氏(寄島町)

寄島町東安倉のKさん宅を訪ねて備中杜氏について調査した。
Kさんは現在も岡山市奥田岡山酒造の杜氏として働いている。

この地方は沿岸漁業、畑作が収入源であるがいずれも零細経営のため、酒造りの出稼ぎに行く者が多かった。
そして杜氏になることが出世することであり、100日間で一年の収入を得られるのがなによりの魅力である。
酒作りは杜氏を頭に
蔵人頭、
代司、
もとまわり、
仕込み方、
道具回し等、七つの職階に分かれており、もとまわり以上が一人前とされる。

一つ階級があがるのに2~3年期がいる。
寄島町全体では300人位いる。
杜氏の仕事は酒米の選定、
精米の程度から人間関係まで気をつかう。
11月中旬より4月末までの長い期間には、仲間割れもあった。
杜氏は互いに技量をかくしていた。
毎年同じ味の酒を作ることが大切であった。

・・・


大島杜氏


「大島歴史散歩」大島まちづくり協議会  平成26年発行


元禄年間に、
正頭の浅野弥次郎兵衛が灘で修業して大島の杜氏の祖となりました。
正頭は水田も畑も少なく冬季は漁に行かないので出稼ぎが盛んでした。
夏は農作業や漁業の合間に専門家を招いて酒造の研修会を実施するので、
優秀な技術を持つ”大島杜氏”として有名でした。

出稼ぎ先から給料を郵便で送金しましたので、
家族が受け取りに便利なように大正8年に大島で最初の郵便局が正頭にできました。

浅口郡の杜氏人数 大正12年
大島 150人
寄島 75人
里庄・鴨方他 309人
合計 540人

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天声人語 【昭和21年】~四等国~ほか

2023年08月24日 | 昭和21年~25年

進駐軍の占領政策で、天皇制護持は補償されたが、
敗戦による民主制天皇の誕生には、昭和21年当時、手探り状態であったのが読み取れる。

 

・・・

「天声人語」 昭和21年

・・・


 昭和21年 1・1

焦土日本 

建国以来かくも悲惨な、かくも深刻な新年はいまだかつてなきところ、
満州事変の直後、内田康哉外相によって無考えに放言せられた焦土外交なるものは、
その直後松岡洋右外相の放胆無比な仕上げにあって、
ついに文字通り国を挙げて焦土と化してしまうのであった。

この沈痛な昭和21年の初頭に当たって、君民相互の信頼と敬愛とを提唱し、
単なる神話、伝説に即する現御神(あらみかみ)などの架空的観念を排する画期的詔書の渙発を見る。
まさに科学的日本への一発条たるべきものであろう。

 

・・・

「天声人語」  

昭和21(1946)年  1・6

四等国

昨年9月2日降伏調印によって日本は世界の四等国になったのであるとは、
マック元帥の断案であるが、
その前には、またもっと遡った開戦前に何等国であったのであろうか。

日清戦後が三等国、
日露戦後が二等国、
第一次世界大戦後が一等国になったと一応の説明はつく。

 

・・・・

4.21
ウォーナー博士 


奈良や京都が爆撃されるかどうかについて二つの説があった。
米国は古代文化を破壊するような暴挙はすまいという説と、ドイツの場合ドデスデンには開戦以来一弾も落とさなかったので、ここだけは残す気だろうと、
同市の人口は十倍くらいに膨張したが、結局最後には灰塵に帰した、
日本の古都の場合も同じ囮戦術でくるだろうという説である。

だが奈良も京都も無傷で残された。
その陰にはウォーナー博士の尽力があった。

一美術館長の進言が、米空軍をして一指も触れさせなかったのだ。
同氏がマ司令部の顧問に迎えられたのは日本文化の幸福である。

 

・・・

「天声人語」  

昭和21年 4・29

嵐の中の天皇 

敗戦後、初の天長節である。
天皇を神格化しないようにして祝賀会を行っても差支えない、
という文部省通牒の表現が、占領下の天長節の性格を物語っている。

天皇に関する国民の考えもずいぶん変わったが、
天皇の性格そのものも大きく変貌した。

第一は去年の9月27日、陛下のマ元帥御訪問である。
これで天皇が連合軍最高司令官の下位にお在ることを親(みずか)ら国民の前に示された。

第二は新年の詔書で、親ら神性を否定された。
それから陛下は人間として国民の中に入ってゆかれ、天皇と国民の間に、
奉上や御下問ではなく自由な会話が初めて生まれた。

家庭的なお集いの写真も出た。
以前は、天皇は神なるが故に親子夫婦の愛情を国民の前に示されるべきでないという不文律があったのだ。

天皇の性格も改正憲法が本極りになれば、落ちつく処に落ちつくわけである。
嵐の中に立つ天皇陛下のお誕生日に際し、
国民何れの論客といえども、感慨なき能わぬであろう。

 ・・・・

5.9

皇族と人間性 

満員電車の三笠宮をみて、お疲れでしょう、大変でしょうと同情されたのに殿下はご不満で、
気楽になって満足でしょう、社会学の勉強になりましょう、と云った人が二人しかいないと嘆かれたという。

皇室や皇族方は、今までのような楽な生活は許されないが、人間的解放には新しい感激を覚えておられよう。
人間社会から隔離された生き方は、人間として決して幸福とはいわれなかった。

皇太子さまが幼い頃、動物園にゆかれた。初めての試みとして、交通止めのない行啓だったが、
何が一番面白かったですかとお付きがお尋ねしたら、「電車が動いていた」とおっしゃった。

電車はいつも止まっているものと幼心に思っておられたのだ。

・・・・・

5.12
季節感の回復  

日本の新緑や花の美しいのに、今さらながら目をみはるのである。
つやつやしい柿若葉や欅、栗など木々の新芽、スクスクと伸びている麦の青さ、
それに山吹やつつじなど、初夏の山河は美しい。
目に青葉の句もおのずと口にのぼる。初がつおの方はまだ実感に至らぬが。

花や緑も何年かぶりに接する心地がする。
平和になって季節感をとりもどしたのである。
五月といえば、去年の今頃はB29の絨毯爆撃がいよいよ烈しく、家を焼かれ、肉親と離れ、花や緑を賞するどころではなかった。

本土決戦で敵を殲滅するとか、一億玉砕で国体を護持するとか、あのまま続けていたら、
コロネット作戦、オリンピック作戦をまたずとも、原子爆弾で国も山河も亡びつくしたに相違ない。


・・・・・・・・・・

6.11
子供を粗末にする国  

マ元帥の四月占領報告にの中に、少年犯罪は上昇をつづけている、とある。
東京における犯罪の五割八分が少年によるものだと指摘している。

今の日本ほど子供を粗末にする国はあるまい。
国家として子供に、とりたてていうほどの保護を与えているか。
赤ん坊の食糧たる牛乳は、ヒゲの生えた赤ん坊たちが喫茶店でガブガブのんでしまう。
学校では腹が減れば休めという。
戦災孤児がいつくような保護施設もない。

子供のことなどかまっておれぬとうのが、今の状態であろう。

・・・・・

6.13

復員者への愛情  


現在の失業者は二百万と推定されている。
そこへ最近までの復員者は約二百万人とみられ、あと数百万人がまだ帰っていない。

これらの大部分が失業群の中に投げこまれるとみられ、社会不安の大きな原因となる。
復員者の採用にはどこでも用心深い風がある。
速やかに新たな大きな手がうたれねば、社会不安は、食糧危機とともに内攻してゆくばかりだ。


・・・・・・・・・・・・

6.18

お米に愛国心なし 


ガダルカナル島はガ島といわれた。
それが転じて餓島とよばれた。

この島から帰って栄養失調で死んだ兵隊の消化器官を解剖すると、
胃壁も腸壁もヒダがなくなりノッペリと坊主になっていたという。

都会で一番困っているのは、多子家庭と疎開やもめだ。
ことに戦災の多子家庭などは金に替える物もない。
きものを売り食いするタケノコ生活はまだ良い部類に属する。


・・・・

6.25

若き飢えるてるの悩み 

一高記念祭がこの二十三日終戦後はじめて開かれた。
数々の飾り物のなかに「若き飢えるてるの悩み」というのがあった。
骸骨のようにやせ衰えている学生が白線の帽子をかぶってヒョロリと立っている。

若き飢えるてるの悩みのために、大学から国民学校まで、これから三ヶ月余の長期食糧休暇にはいろうとしている。
この百日間をどう過ごしたらよいのか、大きな悩みである。

教科書も参考書もない。
本はあっても高くて買えない。

風紀問題でも憂うべき危機が伏在している。
食べものがないから休めッ!というだけでは文部省もあまりに無責任ではないか。

・・・・

7.7

知恵者の愚 

極東軍事裁判における満州事変発端に関する発言内容は、百も承知の人もあれば、初耳の人もある。
日本の上層部や政界、新聞界では常識となっている範囲をあまり出ていない。

しかし大多数の大衆にとっては、うすうすは知っていても
「そんなこともあったのか」とおどろくことが多い。
国民の九九パーセントまではツンボ桟敷に追いこまれていた。
しかもそれが小さい出来事でなはなく、国家民族の運命に至大な関係のあることばかりである。

満州事変前後からの言論報道の暗黒というものが、いかに国民の知らぬまに、国民を破滅の淵へひきずっていたかがわかる。
愚かのようでも最も賢明なものは、国民大衆である。
この戦争はやるべきか、悪い者は軍閥か、という大きな問題については、国民は本能的に、皮膚で、毛穴で感じ分け、最も正しい判断を下すものだ。

・・・

 

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墨ぬり教科書の頃

2023年08月24日 | 昭和20年(戦後)

敗戦後の軍国主義一掃の学校現場は、
国民生活の衣食住、そのすべてが不足した中で行われていった。

・・・

「福山市引野町誌」  引野町誌編纂委員会 ぎょうせい 昭和61年発行


墨ぬり教科書

昭和20年9月文部省は教科書の全部削除・一部削除・取り扱い注意を示した。
ただし、これは「国語」科のみだった。

20年12月GHQは、
修身・日本歴史・地理の即時停止と
教科書の全面回収という極めて厳しいものだった。

文部省はこれを受けて指令を通達した。
これが「墨ぬり教科書」であり、翌昭和22年に暫定教科書ができるまで使用された。


◎削除・修正の例
「海軍のにいさん」「菊の花」「神だな」「にいさんの入営」「金しくんしょう」
「病院のへいたいさん」「支那の子ども」
修正
「センチノニイサン」「オクニノタメニ」を
「兄さん、しっかり、元気ではたらけと」と修正するよう指示された。


・・・

「1億人の昭和史4」 毎日新聞社 1975・9月号 

 

・・・・


「岡山県教育史・続編」 岡山県教育委員会  昭和49年発行

戦後の教育
敗戦処理

戦災を受けなかった学校は、
通常の夏休みあけと同様に二学期を迎えたが、児童の転入出はどの学校も多かった。


教育に対する価値転換と占領軍の巡視による精神的な圧迫感が教師の自信喪失となって、
全般的に教育そのものも活気を失ってきた。
これに加えて、生活物資の不足、なかでも食糧不足は教師生活を不安定にした。

このころ、国民学校では男女共学が基準となり、
学級の男女別編成ができなくなり、二人用の机に男女が並んで席についた。

学校につぎつぎとくるものは、
占領軍の指令と、
物資不足を補うため学童の大動員による未利用資源の採集依頼、要望で、
これは戦争末期よりもさらにきびしかった。

県は市町村長、学校長あて文書を出した(昭和21年6月11日)
集荷原料と品を概ね左の通りとす。

ワラビ、ゼンマイ、フキ、蓬、クローバー等の野草

南瓜種子、南瓜の葉、茶殻、蓬、ヨメ菜等の野草、里芋茎、彼岸花球根

団栗、蕨地下茎、果実皮、南瓜種子、南瓜葉

果実皮、葛根、茶殻、甘藷茎葉、大根葉、人参葉
集荷方法
学業の余暇及び実習の時間を以って集めるものとす。
家庭より生ずる残廃物は隣組等の協力を得て学童之を集めるものとす。
学校に於いて品種別に選別し乾燥を成す。

行進
団体行動は号令一下、軍隊式に行われたのであるが、
軍国主義を学校から一掃するとなると、号令をどのようにかけたらよいか、とまどう結果となった。
「気を付け」「休め」「右、左向け」「廻れ右」「番号」等は最小限に止め、
かつ愉快な気持ちを与えるようにするならばさしつかえない。
行進は音楽に合わして調子よく歩くことはさしつかえない。
要は
学校より軍事色を払拭することが目的であるから、その精神に従い責任をもって実施すると共に、許される範囲のものについては積極的に指導するのが肝要である。
体育で号令をかけるのは、軍国主義的だといので、教師の指示だけでできる球技が流行し、
ゴム製ドッジボールなどは意外に早く出回って子どもにも喜ばれた。
球技時代に入った。

 

・・・

「創立60周年記念誌・精研」 精研高校  平成7年発行

終戦の詔勅を受けて、
学徒動員、防空演習などが即刻廃止され、
銃器、連合軍を敵視したビラ、ポスターの撤去などが急いで進められ、
授業が再開される。

昭和20年9月15日、文部省の「新日本建設の教育方針」に基づき、
銃剣道や教練などの軍事教育の学科が廃止され、
昭和21年1月には修身、日本歴史および地理の教科書は回収され、
他の教科書も軍国主義的記述は墨で塗りつぶされた。
また御真影奉安殿は撤去され、
教育勅語の奉読も中止された。

 

・・・

「笠岡高校70年史」  笠岡高校 昭和47年発行

「私の女学生生活」 


昭和20年 3年生
〇8月15日 終戦全員早退してラジ玉音をきく。
〇2学期より4年生水島動員より解除され、敷紡の友のとも一緒になり、授業始まる。
〇吉田山、西大戸の山と開墾作業とが半々。教科書もなくザラ紙の洋半紙に先生が印刷したものを使用す。英語の授業も再び始まる。

・・

沿革
昭和22年、岡山県立笠岡高等女学校・併設中学校を設ける
昭和23年、岡山県立笠岡第二高等学校
昭和24年、岡山県立笠岡高等学校千鳥校舎
昭和28年、岡山県立笠岡高等学校

・・・


「岡山県教育史・続編」 岡山県教育委員会  昭和49年発行

社会科

修身、公民、地理、歴史がなくなり、社会科が設けらた。
社会科は、従来の修身、公民、地理、歴史をまとめたものでなく、
社会生活についての良識を養うことを目的として、設けられたのである。


・・・

「創立八十周年記念誌」 笠岡商高・吸江舎 昭和56年発行

「教師時代の思い出」 元教諭 加藤六月


当時は旧制商工学校から新制高校に変わったばかりで、3年生の「社会」の教科書はありませんでした。
文部省の指導要綱を読みながら、毎晩、翌日教える内容を一生懸命勉強して整理し、それを教壇で読みながら生徒にノートして貰いましたが、
週5時間分を書き上げる努力は大変なものでした。
途中私自身、勉強の行き詰まりを感じ、翌日3年生の「社会」の教壇に立つのが恐くて眠れない夜もありました。

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写真を隠す、銅像を隠す、忠魂碑を隠す、鳥居を隠す  

2023年08月22日 | 昭和20年(戦後)

終戦直後は食糧難に代表されるが、あわてふためく行為も多々あった。

家には、天皇皇后の写真を額に入れて飾っていた。
その額は、
「戦後の一時、取り外して押入れの一番奥に隠していた」
と祖母が話していた。
「これを見られたらアメリカに捕まる」
のが、その理由だった。

そんな理由で、戦争直後に、
いろんな物が焼かれたり、壊されたり、隠された。
廃却されたものは戻らないが、
隠されたものの多くは数年後に復活されたものが多い。

笠岡市内では学校の校庭の地中から石の鳥居がでたり、和気清麻呂像が民家に隠されたりしたが、
福山市の備後護国神社鳥居も興味深い。

 

(2021.9.29 福山市草戸町)

・・

「福山市多治米町誌」

新築中の護国神社は昭和20年8月8日の空襲で焼けた。
戦後「このままだと取り壊されるおそれがある」と市当局者は近くの地中に二基とも解体して埋蔵した。
神社跡は福山市民球場ができ、次いで昭和43年市立体育館が建設された。

その後、備後護国神社として昭和33年福山城背の阿部神社を改築し合祀された。
一基は昭和36年に発掘し現備後護国神社参道に再建された。
もう一基の方は埋めた場所が分からなくなり「幻の鳥居」と呼ばれていたが体育館駐車場下にあると分かり、昭和55年秋の大祭に間に合うよう再建された。

 

・・・

「美星町史」  美星町 昭和51年発行
進駐軍の命令といって忠魂碑がこわされ、
戦争に関係あった書類は次々に焼き払われた。
青年学校にあった教練銃銃剣術用木銃、防具や、女生徒用薙刀は知らぬ間に埋めたり、焼き捨てられた。

・・・

 

 

(学校から庄屋さんの庭に移動して隠し、その後学校に再建された和気清麻呂像=笠岡市立大島小学校)

 

・・・

「岡山県史」
終戦後、天皇の巡幸に関し
天皇の巡幸が小学校であれば、天皇到着以前に次の物を必ず撤去するよう通達が出た。
二宮金次郎像
和気清麻呂像
奉安殿
忠魂碑
御真影
原型をとどめないように撤去すること。

・・・

「岡山県教育史・続編」 岡山県教育委員会  昭和49年発行

戦後の教育・敗戦処理

昭和20年8月16日 学徒動員解除
昭和20年8月24日 学校教訓、防空関係の訓令が廃止
昭和20年8月25日 「対新時局緊急措置に関する件」が、岡山県発令
一 御真影、詔書類は奉安殿、奉安所に奉還すること
二 興亜室は之を撤去すること
三 校内一円に亘り、写真・ポスター・米英ソ支を敵視し、或いは戦意昴揚のための一切の資料は之を撤去すること
四 図書・雑誌や学徒の綴り方・図画・習字にして、右の類するものは適当なる措置をすること
五 戦利品・竹槍塔は改造する等適当に措置すること
六 米英ソ支を敵視する音楽は一切歌踊せしめざること
七 銃器類の措置は県教学課の指示を俟つこと
八 その他、簿冊並びに施設等右に類するものは早急に適当に措置すること
九 米英ソ支の軍隊進駐することあるときは、非礼不遜なる態度言動を慎ましめ、之を刺戟せざること。
十 殊に女子学徒に対しては、最も厳粛なる態度を堅持し、苟も米英ソ支軍民に寸分の間隙を見せざる様訓練すること
十一 保護者・家庭に対しても本通牒の趣旨を徹底せしめること
十二 九月一日以後之を遂行す

・・・

 

 

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塩飢饉

2023年08月19日 | 昭和20年(戦後)

茂平の苫無の松林の西側(内海=うちうみ)に沿って、塩田跡が残っていた。
「戦争が終わって2~3年ほど、ここで塩を作っていた」という話だった。

茂平の塩田は入浜式の塩田ではなくて、
「安寿と厨子王」の、安寿がしていた桶で汐汲みの”揚浜式”の製塩だった。
戦中から戦後の一時期は、原始時代に戻ったようなことを、
大真面目に、そして一途にして、その日の生活をやりくりしていた時代だった。

 

・・・

「岡山の女性と暮らし 戦前・戦中の歩み」 岡山女性史研究会編  山陽新聞社 2000発行

自家製塩の奨励

塩田労働者を徴兵・徴用で奪われて、塩の生産も落ち込んだ。
前年晩秋から、漬物用の塩の不足が問題となり、
この5月、国は専売法での製塩制限を撤廃して、自家用製塩の奨励を始めた。
曲折した斜面を作り、何度も海水を流して17度程度のかん水にして、煮詰めれば一日一キロの塩は取れると指導したが、燃料不足で不可能とわかった。
かん水をそのまま利用せよ、という指導に変わった。

さらに輸送不足も加わり、漬物用塩の特配が遅れ、山間部で深刻な問題となった。

 

・・・・
「瀬戸内の産業と交通」 横山昭市  瀬戸内海環境保全協会 昭和54年発行


塩飢饉
第二次大戦が激しくなると、
入浜式塩田も資材や労働力の不足で荒廃し、
塩の生産量も激減した。
戦時中から戦後にかけての塩飢饉の苦い経験から、政府も食塩の増産に本腰を入れた。
昭和25年頃にはほぼ戦前の生産量に復興した。

 

・・・・・


「福山市引野町誌」 引野町協議会  昭和61年発行


戦後の自給製塩


第二次大戦末期から終戦直後にかけての塩の需給
殊に民需関係は急迫状態に陥っていた。
味噌醤油の製造販売を期生したほどであったから、
始めから専売の塩は手にはいらない状況であった。
戦争、直後の思い出に、
海水を汲んできて煮詰めて塩を作ったとか、
蓆(むしろ)に海水をかけ、乾くのを待ってパッパとふるって塩を作ったなどという話がたくさん残っている。

・・・
「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行

沙美まで行って樽に海水を汲んできて煮詰め、塩の代わりにしたこともある。

・・・

 

父の話 (2005.1.15)


小迫に塩田もあった、若いもんがしていた。

野々浜の塩田はあったが、作る仕事をしょうるのを見たことはない。広かった。

 

・・・

「岡山県史・現代Ⅰ」

昭和5年第二次塩業整備が行われた。
小田郡神島内村の神島浜や横島浜などが廃止された。
塩田で働く労働者を浜子、
塩田での作業のことを採鹹(さいかん)作業と言った。


入浜式塩田での採かん作業には長年の経験が必要であるうえ、
夏の炎天下の重労働でもある。
第二次世界大戦中には多くの浜子が徴兵され、労働力不足から塩田が荒廃し、
塩の生産量も著しく低下した。
いったん廃止されていたものが、
戦後の塩飢饉時代に自給製塩と言うことで復活した。

・・・


「戦争中の暮らしの記録」

海水のおかゆ

私の生家は、岡山県笠岡市の隣村で、旧制中学の先生をしていた父は、
ヤミ物資には絶対手を出さぬようにと、いつも母にいっておりました。
味付け用の塩が、配給だけではとても足りません。
困った挙句の果て、母は一里ほど先にある瀬戸内海の海水利用でした。
近所の人二人を誘って三人で、大八車に二斗樽を三つ積み込んで出かけて行きました。
帰りは一人が梶を持ち、二人が後押しです。
フタのない樽もあり、車が揺れるたびにポチャンと海水がはねます。
顔は汗とほこり、
モンペは、はねた海水と汗で白く、
こうして、
海水で味付けしたお粥が夕食なのです。

現在、私が主婦となり、あの頃の母の年齢に近くなってきますと、
あの苦しい暗い時代を、よくぞ病気もしないで、みんなをみんな守って来てくれたものと
つくづく思います。

・・・

 

 

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天声人語 【昭和20年】~以徳報怨(徳をもって恨みに報いる)演説~ほか

2023年08月19日 | 昭和20年(戦後)

図書館から文庫本「天声人語」を借りた。
その時代が、感じられて興味深い。

・・・


昭和20年の「天声人語」

 

昭和20(1945)年 9・12

お役所仕事


アメリカの進駐軍は、たった2日間で、横浜の桟橋から、厚木の飛行場まで、
ガソリン油送管をひいてしまった。
代々木練兵場の幕営にしても、一夜のうちに機械力を駆使して、街路ができ、キャンプが設営され、井戸が掘られ、浄水装置までつくられた。

司令部における士官たちの執務ぶりでも、手紙ひとつがきても、すぐ速記者に口述してタイプを打たせ、上官の署名を得てただちに発送されるなど、水の流れるように事務がさばかれてゆく。
また日米間の交渉的なことでも、こちらの言い分を正当と認めれば、遅滞なく命令に移されて、てきぱきと処理される。

わがお役所仕事は、お役所仕事の効率があがらないということであった。
一つの許可を受けるにしても、あちこち回って、たくさんの判を貰わねばならないし、数省に関連したものなどは、お百度参りをやらねばならない。

 

・・・・


昭和20年9月16日

学び得たこと  

敗北によって今次の戦争で、いろいろと喪うところが多かったのは、万やむを得ないことだ。が、
一方、この戦争によって、得るところ、学び得たことも、すくなくない。

学徒が、学業を中止して職場に赴いたことなどは、教育本来の形からいえば、やはり喪うところが多いことではあった。しかし、
男女の学徒がいろいろな職場に仕事を持ち、勤労の本体に触れ、世の中を見たその体験は、日本国民にプラスした。

今一つ、この戦争の収穫がある。
婦人の実社会への進出がそれである。

配給、防空等に関する仕事によって、日本の女性は、戦争と取り組み戦争経済の中に没入した。
そのことによって、婦人は、
日本政治経済の動きを見、それを通して、戦争政治を感じることができた。

約言すれば、日本女性は、社会人的要素を、この戦争によって獲得したという訳である。

 

・・・

10.22


愛林精神  

戦災者救済の簡易住宅も、冬が迫るのに一向進捗していない。
木は伐っても、輸送に隘路があるということだ。
日本は森林が国土の七割を占めて森林国といわれるが、蓄積が貧弱なために、大正10年以後は、年々数百万石を輸入する状態であった。 

支那事変が始まって輸入がとまった上に、大東亜戦争となってからは、
軍用材、木造船、坑木その他膨大なる戦時要請に応ずるために林力を消耗する増産が行われ、ついには
神社仏閣の名木や、由緒ある街道の並木まで伐られるにいたった。

こうしていたるところ森林の過伐、乱伐を招来したのである。

 

・・・


昭和20・11・10


隣邦融和

思うに8月15日の終戦の大詔が、日本人をして一糸乱れず聖断に帰一し奉る効果をもっていたのに対して、
中国にあっても、蒋主席の一段よく四億の兆民を心服せしめるに足りるものがあった事実は永久に忘れるべきではない。

「暴に報いるに直を以てし、讐に応えるに恩を以てす」とは、
実に終戦当時に同主席が中国駐屯の日本軍と、在住の日本人とに向かって放送したところであり、
寸言をもって中国人の痛憤を宥めると共に、増上慢の絶頂から麻のごとく乱れる失意のどん底に転落しつつあった日本人の心緒に深刻なる猛省を強いるに足りるものがあった。

まさに「恩讐の彼方」以上の寛仁大度というべきで、
遺憾ながら道徳上の大人と小児との距たりを見せつけられた観があった。

 

・・・・


昭和20・12.6

戦争犯罪容疑者 

戦争犯罪容疑者の数が次々に殖えて、二百十八名を算するに至った。
近年各界の表面に活躍して来た有力者が束にして、隔離されて行く結果、否応なしに政治経済文化の形態と内容とが急変していくに相違ない。

幣原首相は議会の答弁において、
大戦の責任は国民になく、
また天皇の統治上の行動については国務大臣が一切の責任を負うべきものといっている。

しからば、
その両者の中間に立って、統治と戦争とに関するすべての責任を分かつべき人々はもっと多数あるはずで、
連合国の指名を俟つまでもなく、自ら罪し、自らを葬る者が続出して然るべきではないか。
いち早く権力に阿附して、反対派を葬ることのみ夢中になって世の中を暗くし、政道を誤らせてきた卑怯な民間人を一掃する必要がある。

・・・

 

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「兵隊盃」 

2023年08月17日 | 昭和51年~64年

郷土・城見村出身の偉人、加藤六月代議士は終戦後、小さな”盃”をコツコツと蒐集していた。
その盃には、日の丸や凱旋が描かれていて、軍人の戦勝や退役の際の記念品だった。
戦後は廃棄物同様に扱われ、哀れんだ六月さんは、
それを”兵隊盃”と呼んだ。

 

・・・ 


 「兵隊盃」 


序にかえて    加藤六月

私が「兵隊盃」を蒐集するようになったのは、昭和24.25年頃である。
郷土の星島二郎先生の門下生となって、修業しはじめたころでもある。 

当時の食糧事情はひどく、食べ物、そして着る物、せわしい日々、やみくもに生きてきた。
そんな時に戦災で焼け残った街角に時折、骨董品をみかけた。
岡山市の骨董品店でのことである。
片隅に
日の丸と軍旗をあしらった小さな盃が埃にまみれ雑然と積み上げられていた。

この時、胸をついた不思議な感情は今でも忘れることはできない。
何かしら哀れと思った。
憤りと恥しさの入り混じった複雑な気持ちといえようか。
戦争に敗れた日本は進駐軍の支配下にあり、日の丸の掲揚は禁止されていた。
政治、経済、文化のあらゆる文化の人が、
戦争協力者として公職追放された。
日本人一人一人が戦争の生々しい傷跡に苦しみ、あえいでいた時代である。 

日の丸をあしらい、「凱旋記念」などと記してある。
「兵隊盃」は、不用品どころが邪魔な品物であった。
家の中にしまっておくことすら不安に思えたかもしれない。
 
私は第二次大戦の末期、陸軍航空士官学校に在籍していた。
多くの先達が前線に飛びたち、
漠然とだが、自分自身も死を運命づけて考えていたように思う。

急転回する時流にどこか不器用で、ぎこちなかったとも思う。
「兵隊盃」と出会い、
「野ざらしにしておいていいのだろうか・・・」
そんな思いに駆られ、店の片隅にあった盃を数個買った。
 
それから三十数年。
昭和42年、代議士に初当選するや多忙を極めるようになった。
そうした中にあっても、
周囲の協力もあり盃の蒐集は中断することなく続いた。
そうしているうちに置く場所は限界点をとうに超えてしまった。
私は集めた盃を前に「どうすればよいのだろうか」とここ数年考え続けた。
陸士六十期の同期生諸兄らとも相談してみた。

 
・・・

 


兵隊盃の由来


国立国会図書館に問い合わせてみると、兵隊盃という言葉は記載されていない。
戦前、
兵隊が兵役を終了し、満期除隊になる時に記念品を配る習慣があったが、
その際、盃が記念品の代表的なものとして使われたのではないか、という。

兵隊盃の主たるものは磁器でできている。
明治維新後、陶磁器の生産技術は飛躍的に向上し、生産量は急激に増大。
それに伴って一個あたりの生産コストも大幅に低下、個人で負担可能な状態になった。
戦争参加や凱旋・戦勝記念ばかりでなく、「除隊記念」「退営記念」の盃がつくられた。
日の丸、軍旗、桜や梅、星、馬、大砲などの絵柄。大陸地図や戦艦名を記入したり、工夫がみられる。
また特別大演習を記念する木盃や徳利、湯呑、茶碗、急須、遺髪(爪)入れなどの記念品も多く登場するようになった。 

日露戦争から第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、昭和7年の上海事変のころまで兵隊盃の配布は兵役期間を済ませたものの習慣になった。
兵役を済ませることは一人前の成人男子と認知されることであり、
入隊する際に親戚や知人から餞別を受け取れば、そのお返しの意味も込めて配ったようである。
ただ、
こうした習慣は日中戦争を経て衰退してゆく。物資不足、人出不足で
盃を配布する余裕がなくなったのである。

 

・・・

 

  

後記     加藤六月

本の出版の意図は、私は「誤ちは二度と繰り返さない」という強い決意と反省を持っている。
軍が強大になり、派閥抗争が生まれてくると、
国民生活の優先より軍備拡張、社会資本の充実より国防優先と逆立ちした風潮が出てきた。
「守るべきもの」が国民の自由や生命・財産ではなくなった。

信仰的軍国主義が鼓吹され、大和魂が徹底的に鍛え込まれた。
「選ばれた優秀な民族、日本人」ばかりが強調される精神至上主義であった。
戦争は泥沼化し、日本の都市は空襲で焼け野原、広島と長崎は原爆の惨劇。
戦争の非人間性と悲惨さを骨の髄まで知ってしまった。

昭和42年に衆議院議員に初当選して以来、18年目の政治生活を迎えた。
無我夢中でやってきたが、
これまでの政治生活を振り返り、新たな飛躍を期す転機とするつもりである。


・・・

「兵隊盃」~平和への無限の思い~
 
昭和59年7月16日 第1版発行
著者--加藤六月
定価---3.600円
発行所---総合政経懇話会出版部

 

・・・

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靖国神社

2023年08月15日 | 「戦争遺跡」を訪ねる

場所・東京都
訪問日・2011.9.9


靖国神社(Wikipedia)

靖国神社は、東京都千代田区九段北にある神社。
慶応4年(1868年)以降、戊辰戦争・明治維新期の戦没者を慰霊、顕彰する動きが活発になり、そのための施設である招魂社創立の動きが各地で起きた。
それらを背景に明治天皇の勅令によって明治2年(1869年)に建てられた招魂社に起源を発し、国家のために殉難した人の霊(英霊)246万6千余柱を祀る。
全国にある護国神社と深い関わりがある。









戦時歌謡の「九段の母」では、


上野駅から九段まで
かってしらないじれったさ
杖をたよりに一日がかり
せがれきたぞや会いにきた

上野駅から九段坂まで、徒歩で4kmほどある。
「せがれ」が22才とすれば、「九段の母」は44、45才前後。
今では、信じられないが、その年齢で
「杖をたより」「一日がかり」が当時の標準だったのだろう・・・な。







コメント (1)
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