しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和22年4月、6・3制学校が始まる頃 (新制第一回小学1年生の話)

2023年08月01日 | 昭和21年~25年

戦後の教育改革で、
昭和22年4月1日から6・3制度が施行。
昭和23年4月1日から6・3・3制度が施行。
昭和24年4月1日から6・3・3・4制度が施行された。

 

・・・

これは、
昭和22年4月1日に岡山県小田郡A村立A小学校に入学したB男さんの話。
談・2023.7.23


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(「一億人の昭和史」占領下の市民生活 毎日新聞 昭和50年発行)

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食べるもの

だいたい麦飯とサツマイモ。
朝サツマイモを炊く、家族全員ぶんのサツマイモを炊く。
それを食べて学校に行きょうた。
(麦飯は?)
そんなものを朝から食べるもんな。もってーねい。
中学生になるころ麦飯を食うようになった。

弁当
ある正月あけに、兄嫁が弁当に餅を焼いていれてくれたんじゃ。
昼に食べようとしたら餅がカチンカチンになっとって、顎が折れるくれい噛んだ思い出がある。

晩飯
夏はうどん。冷やしうどん。
なんでウドンかというと、
そのころは物々交換なんで、小麦を作る。
追分にウドン屋があった。
小麦を持って行ったら、粉に替えてくれたり、うどんに替えてくれた。
お金はいらん。
豆腐は、豆腐屋に大豆を持っていったら、その分量だけ豆腐や油揚げを入れてくれる。
お金はなくても、なんとかしのげてはいけた。

晩ジャコ売り
西浜(よーすな)から「晩ジャコはいらんかー」を売りにくるんじゃ。リヤカーに積んで。
百姓が終わって家に帰るころ、リヤカーに引いてきとった。
それを買うにはお金がいる。
そのお金はおふくろが真田を編みょうた。
真田を売って金にしょうた。
親父はハッカを植える、イグサを植える。それは換金作物な。
それで文房具を買うたりしていた。


ニワトリの肉
肉(牛やブタや馬)は喰うたことはねえ。
鶏を祭に首を絞めて料理しようた。スキヤキに。
それも大人な酒の肴で、その残ったのを子供が食べとった。
肉は吉田の方から売りにきょうた。
じゃけど地区に一軒だけある大地主の家に行くだけで、
われわれの家の前は素通りして行きょうた。
われわれの家は買わんから、金がねえから、


荒神様の”ボタ”
荒神田(こうじんだ)といって、荒神さんの小さい田んぼがある。
秋になってお祭りになると、その田んぼで穫れた米で「ボタ」をつくる。
ボタは、キナコやボタモチとかでなく、単なる”にぎりめし”。
円く握ったボタをぎゅっとしめて赤ん坊の頭くらいの大きさ、これを、じいさん・ばあさん、子どもも同じいっこづつくれる。
これが、うれしゅうてなあ。
米の飯じゃろ。
普段はサツマイモやうどんしか食べてない。
何日もかけて食びょうた。
うれしかったなあ。
みんなもらいにいきょうた。


学校の畑
小学校の畑があった。
そこへ小麦やサツマイモを植えとった。
宿直の先生が、小麦はうどんに換えるとか、
サツマイモは焚いて食わしてくりょうた。
そんな楽しみがあったなあ。

 

茸(きのこ)
あの頃は生活は充実しとった。ゆたかじゃった。
秋になったらマッタケは採れる。
キノコは採れる。
キノコは採った後、乾燥させると一年中食べれる。
バラズシに入れるとおいしい寿司ができる。
ゆたかじゃったよ。

 

換金作物
おやじは、
ハッカを植える、イグサを植える。換金作物じゃな。
それを売って文房具やこ買うてもらようた。
基本は自給自足。

 

乾パン
家の近所に陸軍のエライ人になった人がいた。
その人が東京から休暇で帰ってくるときなどは、
乾パンとかお菓子をもってかえって「おい、やろう」と言ってもらった。
ぼのすごいご馳走だった。
あの乾パンはおいしかったなあ。
今は非常食なんじゃけど。

 

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砂糖・甘味

砂糖など貴重品で、
”さとーぎ”は穂が出る、それが甘みがある。
”さとーきび”を絞る工場があった。
小麦から飴をつくる方法があるのか、それが甘かった。

 

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着るもの

女の子は金持ちの子はパンティをはいとるが、
そうでない子は着物。
そうしたら、しゃがんだら見える。だいじなところが。

男はぞうり
藁ぞうりで、2~3年生になったらゴムぞうりがでてきた。


配給制度がまだあった。
戦前のが残っとった。
僕は靴が当たった。
”うれしいなあ”、とお母さんと喜んだ。
履いてみたらぼれえ大きかった。
それで大事にしてタンスにいれとった。
そして3年生か4年生になったころ、タンスから出して履いてみた。
いちんちかふつかで履けんようになった。
いわゆる再生ゴムじゃから、朽ちてパー・・・。(笑)


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茶屋町のおじ

茶屋町に住んどるおじさんいた。
おじさんは国鉄に勤めとった。それじゃけえ食い物がなかった。
おじさんは線路をずーーーーと歩いて来とった。
僕の従兄妹になるのを連れてリュックサックをもってきとった。
そのリュックサックのなかへサツマイモやダイコンや米を詰めてやりょうた。
そしたらまた背負うて帰りょうた。
汽車に乗ったら金もいるしヤミで捕まる恐れもある、それで歩いて帰りょうた。


稲泥棒
庭に干した稲がはぜが無くなっている。
今日はイネ漕ぎをしにゃああいけんど、
道具を積んでいったがはぜから半分ほどなかった。
隣村の〇〇じゃあなかろうか、と親父が言っていたが、見たわけでなく泣き寝入りです。

 

乞食
”へぇとう”はようきょうた。
ていねいにあつかようた。
なんかちょびっと入れてやりょうた、追い払うようなことはしょうらなんだ。
「ちょっとナンキン取ってけえ」いわれて、さえんから取ってきて渡しょうた。

 

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幼稚園・保育園

この地区に幼稚園も保育園もなかった。
ストレートで小学校に入りょうた。
ただ、
まだ疎開に来た人で残っていた人がいた。
その中にワシの好きになった人がいた。
その人は”すみれちゃん”というかわいい子じゃった。
2年生の運動会の時分に帰っていった。どうしょうるんかなあ。


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小学校の卒業写真

(あの貧しい時代でも)
写真はいろいろ残っとる。
小学校の卒業写真見ると、ワシは学生帽をきとる。
誰に貰うたんじゃろう?

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「井原町史」

藺草(いぐさ)
昭和初期から十年代を通じて、稲倉村、県主村、木之子村で多く作られていた。
特に稲倉村や県主村では、藺染用の土が搾取できたことも良条件となった。

はっか除虫菊全町村で収穫されるという注目される特徴がみられた
恐慌期に収穫は低迷したが、同八年から回復に転じた。

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製縄(せいじょう)

2023年08月01日 | 暮らし

縄=わら縄、という時代が有史以来つづいてきたが、
1960年代になって化学製品に追いやられた。

家では祖父が、雨の日に藁縄を編んでいた。
父や母はしない。
祖父専用の雨の日の仕事だった。

祖父が作ったワラ縄は長屋に積んで保管していた。
そのワラ縄は、すべて家の自給用で他家にわけたり
売ってお金にしてなかった。(家の必要量だけ作っていた)

 

 

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製縄(せいじょう)

千田の製縄の歴史は古く、かつ重要な副業として重んじられていました。
農家の各戸毎に足踏み製縄機を据え付け、老若男女の別なく、副業として精励したものです。



昔の家の建築は、壁は土壁でした。
細長い竹が組まれ、それを手ないのわら縄で組んで止め、泥壁が塗られたもので、
建築には必須のものとなり、小遣い稼ぎになっていました。
太平洋戦争後、化学工業の発展で化学製品の縄が大量に生産販売されるようになり、仕事がなくなってしまいました。

「千田学区地域誌」  (福山市千田町)千田学区町内会連合会  2008年発行

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「梶島山のくらし」 (福山市引野町)梶島山のくらしを記録する会編  2011年発行


梶島山の大事な副業としての縄ない
梶島山には、どの家にも一台の縄ない機があり、二台三台と据えて、その収入で食べていく家もあったほど盛んだった。
縄は梱包に欠かせないもので、米俵、麦や塩を入れる「かます」などに大量に需要があった。
縄ないはいい副業になった。

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