しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

終戦③”ご聖断”

2023年08月13日 | 昭和20年(終戦まで)

1945年7月26日のポツダム宣言から、20日間を経てやっと
1945年8月15日の玉音放送に到達した。

1945年8月14日になっても、なお
海相を除いて
「死中に活を求める」と
”聖戦継続”を参謀総長、軍令部長、陸相が求めた。
最高指導者でありながら、何もみえていない人たちが、軍と国家を導いていたことを現わしている。

 

・・・・・

「大日本帝国崩壊」  加藤聖文 中公新書 2009年発行

8月13日の閣議

8月13日午前8時半過ぎから最高戦争指導会議構成員会議が開催された。
前日同様、
東郷の受諾説と阿南・梅津の再照会説が対立、途中の中断をはさんで午後3時まで続いたが結論はでなかった。
午後4時から閣議が開催されたが、
相変わらず対立が繰り返された。
しかも東郷のもとには陸軍のクーデター計画の噂が頻々と伝えられるようになっていた。
事態は一刻の猶予も許されない状況になりつつあった。
鈴木は各閣僚の意見をいつになく強く求めた。
阿南が再照会を主張、
松阪法相は受諾反対、
安倍内相は首相に一任、
なお、
安倍は聖断が最高指導者会議でなされたことは憲法上問題があるのではないかと述べた。
しかし安倍の意見に同調するものはいなかった。
受諾反対を主張する三人のうち、松阪と安倍は感情的なものであって、反対意見として採りあげるような具体性をもっていなかった。
閣議で意見の統一が図られなかった。そこで鈴木は、
天皇の意思は戦争終結にあるので自分はそれに従う、
ついては天皇に対して今日の閣議の内容を伝え再度聖断を仰ぎたいと述べ、閣議は散会した。

・・

・・

 

8月14日

バーンズ回答への返答がなく、しびれを切らしたトルーマンによって本土爆撃が再開されるなか、
二度目となる御前会議が開かれた。
8月14日10時50分過ぎから最高戦争指導会議構成員と内閣閣僚合同の御前会議が開催された。
天皇のお召しという異例の形式による御前会議に呼ばれたものは23名であった。
天皇を前にして出席者は三列に並んで着席した。
初めから天皇の意思を伝える場として設定されたものであった。
再照会説を主張する阿南・梅津・豊田に意見を開陳する機会を与えるだけにとどめ、
天皇の決断を出席者全員が承るものになった。
鈴木の指名によって梅津・豊田・阿南の順で再照会説が主張された。
それが終わると天皇は立ち上がって、
前回述べた自分の答えは軽々しく決定したものでなく今も変わりがない、
連合国の態度は好意的であると解釈する、
戦争継続は国土も民族も国体も破滅してしまう、
これ以上国民を苦しめるわけにはいかない、
反対の意見の者も私の意見に同意してほしい、
国民に呼びかけることがあればマイクの前にも立つと述べた。
天皇の発言の途中から出席者の咽び泣きがはじまり、
また天皇も涙を流した。

天皇の発言が終わると、鈴木は立ち上って、
天皇に対して至急終戦詔書案を奉呈すること、
重ねて聖断を願ったことを詫び、
御前会議は正午に終了した。
天皇の意思を全員に周知徹底させ、日本の敗北を直視する儀式であった。

・・
8月15日

宣言受諾の詔書発布と同時に、
連合国側へも正式受諾が伝えられた。
本土決戦を息巻いていた中堅幕領のほとんどは反乱に加わることはなかった。
こうして最後まで「国体護持」が争点になるなかで、
「帝国臣民」についてとくに議論はされなかった。
このことが帝国崩壊後大きな問題へとつながっていく。

 

・・・・・・・

「終戦史」  吉見直人  NHK出版 2013年発行

8月14日の二度目の聖断

参謀本部宮崎周一作戦部長の日記。
「市ヶ谷台では日夜書類焼却の為炎の揚がるのを見る、敗戦の憂状明らかなり。
最近召集未訓練の将兵の事なれど逃亡頻出す」
中村隆英東大教授、
「望みのない戦争をこれからも続けようとした陸軍省部も、天皇の意思が明らかになると、
なかば悲憤しながらも、なかば安堵したというのが、真相だったのではなかろうか」


・・

なぜ決断できなかったのか

日中戦争から数えればわずか8年の間に、日本のおもだった都市のほとんどが空襲で焦土と化し、
この国始まって以来の「敗戦」という事態に至った。

映画「日本のいちばん長い日」
映画「日本のいちばん長い日」のストーリーの中核をなすのは、陸軍省の若手将校による「クーデター騒ぎ」だった。
日本大学古川隆久教授はこのクーデター騒ぎや、海軍の「厚木事件」などについて、
「いずれも失敗に終わったのは、あまりに現実から遊離していたためとしかいいようがない」としている。
この時すでに昭和天皇は軍に継戦能力がないことを見切っていた。
あえていうならば軍はもはや頼りにならないのに口だけ達者な部下に成り下がていたのである。
なお、この「クーデター騒ぎ」のことを、我々は放送では一切とりあげなかった。
本当に重要な局面はそれよりももっと以前の段階にあった、と考えたからである。

 

・・・・・・

 

「太平洋戦争全史」  亀井宏  講談社 2009年発行

深夜の御前会議


8月9日、宮中においてポツダム宣言受諾に関する最高戦争指導会議が開催された。
国体護持(皇室の安全保障)以外の条件を出すべき意見と、
条件を出すことは戦争終結の機会を永久に失う意見があった。
全員がポツダム宣言受諾に基本的に賛成しつつも、紛糾を重ねていた折もおり、二度目の原爆が長崎に投下された。
会議は決せず、23時御前会議が開かれた。
以前会議はまとまらず午前2時、聖断によって決することになった。
天皇は外相案に同意するむねを述べた。
次の段階として外務省の手にゆだねられた。
外務省は連合軍将兵に早く知らせる必要があるとし、
同盟通信および日本放送協会の同意を得て、10日夜、
ひそかに海外に向け放送せしめた。

この海外向け放送は、発信後2時間足らずで、まず米国の反響を得、数時間後には全世界に波及したことが認められた。

 

聖断くだる

8月12日、午前0時45分頃、
外務省、同盟通信、陸海軍の受信所は、米国の回答を傍受した。
その中で「連合軍最高司令官の制限のおとに置かれる」箇所が、ふたたび波紋を投げかける。
午後3時の閣議で、「国体問題が不安である、再照会すべきである」との意見に、
鈴木首相が動揺を示し、外相が苦境にたった。

8月13日午前9時から、
首相官邸地下壕で最高戦争指導会議が開かれた。
午後より閣議が開かれた。いづれも結論はでなかった。
8月14日午前10時50分から、
宮中の防空壕内で御前会議がはじまった。
参謀総長、軍令部長、陸相が、
「国体護持の再照会、要求を受け容れないときは継戦し、死中に活を求める」
と言上した。
その後で天皇の発言があった。
ここに戦争終結は確定したのである。

終戦の「詔書」起案のための会議が午後1時からはじまった。
陸相は字句の訂正一ヶ所申し入れただけで、その後は陸軍省内部の一部将校の懇願にも二度と動ずる色を見せなかった。
午後10時ごろ、案の決定をみた。
御名と御璽を請い、閣僚全員の副署ののち、午後11時詔書は発布された。

・・・

 


玉音放送で、アメリカや中国は戦闘状態を自ら納めた。
ソ連は停戦の契約でない理由で、日本領土への侵攻を止めなかった。

 

・・・

   つづく・終戦④玉音放送を聴く

 

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終戦②”国体護持”

2023年08月13日 | 昭和20年(終戦まで)

”国体護持”をつきつめれば、天皇制維持を意味する。
さらにつきつめると、最悪の場合、天皇・皇后の生命を保障する。

昭和天皇は自らの地位や命よりも、日本民族の継続を思った。

 

・・・

「大日本帝国崩壊」  加藤聖文 中公新書 2009年発行


ソ連参戦によってポツダム宣言の受諾は一刻の猶予も残されていないことを悟ったが、
それでもまだ一週間も要したのである。

8月9日、午後11時50分からの皇居地下壕の御前会議

宣言受諾か本土決戦かは三対三で真っ二つに割れ、残る鈴木の去就が注目されたが、
鈴木は自らの意見を述べないまま立ち上がり、天皇の前に進み出て聖断を仰いだ。
天皇は、
「計画に実行が伴わない」として本土決戦論を退け、ポツダム宣言受諾に賛成すると発言した。
時はすでに8月10日午前2時20分であった。
会議が終わると鈴木は早速、首相官邸に引き返して閣議を再開、
午前4時にポツダム宣言受諾を日本政府として正式に決定した。
スイス、スエーデンに第一電を発し、
国内では絶対秘密、
10日夜、海外に対して放送した。

8月12日

米国ではポツダム宣言受諾をめぐる一連の動きがすでに漏れ始め、
戦争終結を喜ぶ声が日増しに高まっていった。
8月12日午後3時の臨時閣議で、東郷はバーンズ回答の妥当性を述べ宣言受諾を主張した。
阿南が、天皇が連合国最高司令官の権限に従属すること、
日本政府の最終的形態が日本国民の意思に委ねられていることに反対、
回答に不満なので米国へ再照会をし、あわせて武装解除と保障占領についても付け加えるべきと発言した。
この日の午前8時半、海津と豊田が参内し、すでに天皇に反対意見を述べていた。
さらに別の閣僚からも武装解除の強制に反対する意見が出た。
鈴木までも国体護持の確認が曖昧であり、武装解除の強制も忍びがたいから米国へ再照会の上、もし聞きいれられないなら戦争継続やむなしと発言したとされる。
結局、閣議の雰囲気が不利と見た東郷は翌日に継続審議でその場を切り抜けた。

・・・

一刻も猶予がないにもかかわらず、堂々巡りの議論が行われたことに憤懣やるかたない東郷は、木戸内大臣に面会し、木戸から説得するよう尽力を求めた。
木戸は午後9時半、鈴木と面会し、宣言受諾断行を求めた。
鈴木は同感であると語ったため、東郷らの不安はひとまず解決された。
このときの閣議における鈴木の「豹変」は、鈴木の優柔不断ぶりを示すものとして批判する研究もある。
もともと政治基盤のないまま首相になった鈴木は、内閣でも宮中でも孤独であった。

臨時閣議で回答受諾か否かが議論されている最中、
もう一つ別の動きが宮中であった。
8月12日午後3時20分から皇族らが宮中に招かれ、
昭和天皇は、参内した
高松宮・三笠宮・賀陽宮・久邇宮・梨本宮・閑院宮・浅香宮・東久邇宮・竹田宮
に対して、
ポツダム宣言受諾の意思を伝えた。
最年長の梨本宮以下、各皇族からは天皇の決定に従うことを誓った。
皇族会議といわれているが、実際には皇族以外の人物も列席していた。
それがイウンとイゴンという二人の朝鮮王朝の末裔であった。
「王族」と「公族」の地位を与えられていた。
「うけたまわりました」と答えるのみであったとされる。

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「日本海軍の終戦工作」  纐纈厚  中公新書  1996年発行

「聖断」論の登場

近衛は陸軍改革も戦争終結も、結局は天皇の「聖断」によるしか可能性が困難なことを自覚しており、その線で天皇の説得を試みていた。
この「聖断」の要請は、以後近衛ら宮中グループの強く望むところとなり、
しばらくは紆余曲折を経ながらも周知の通り、
最終的には「聖断」により陸軍主戦派の戦争継続論を退け、
「国体護持」の一点のみが戦争終結の条件とされていく。

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「一億玉砕道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行

「国体護持」とは何か

「国体の護持」を最終目標にきりかえて、日本は敗色の濃い戦争を継続した。
陸軍は、昭和19年秋からひそかに「最悪事態の研究」をし、まとめた。
最悪の事態とし、
米兵の日本本土駐兵。
陸海軍の武装解除。
天皇制廃止。
日本男子の海外への奴隷的移住などが列挙されている。

早期和平派の指導層でも国体護持は共通した目標だった。
高松宮は「戦争終結は簡単である、国体の護持だけである」と述べている。
海軍の高木惣吉少将は昭和20年5月にまとめた「研究対策」の中で、
和戦いずれになっても「皇位の神聖と国体の護持を眼目」とするを第一にあげている。

しかし軍部、なかでも陸軍は、国体護持ができるかどうか、もっとも悲観的だった。
昭和20年3月梅津美治朗参謀総長が参内して、「米国は国体変革を狙っているから、最後まで抗戦する外ない」と上奏した。
これが陸軍の代表的な考えだった。その考えが本土決戦・徹底抗戦論を最後まで強硬に主張することにつながっていったのである。

・・・・

          つづく・終戦③”ご聖断”

 

 

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