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「寄島町誌」 寄島町役場 昭和42年発行
備中杜氏のおこり
本町には現在80名の杜氏がいて、備中杜氏を出す市町村中その数において第一位を占める。
起源等について記録も無いが、岡山県工業試験場技師の研究によれば、古老杜氏より聞き及んだこととして、
「備中南部海岸地帯は山が海岸まで迫り耕地の少ない僻地であった。
農業のかたわら漁業に従事していた。
冬季になれば職を探すことに苦心していた。
元禄年間、通称忠吉は酒造技術を修得し、杜氏の職を得て、広島県忠海の酒造場を振り出しに各地で酒造技術者として就職していた。
その後、浅野藤十は酒造家業の有望なことを認識し郷党青少年を教育して灘方面へ出稼ぎしていた。
このように逐年酒造技術者の希望者は増加し、明治20年頃には約100名に達し備中杜氏の名称を冠した。
大正年間には、1.000名以上となり、県内は勿論、国内・海外も進出し、丹波・三津の両杜氏とともに、
その名声を博したものである」
と述べている。
杜氏研究
明治36年頃寄島町杜氏組合ができたといわれ、酵母の共同購入を行って酒造技術の研究に努め所謂備中杜氏の名声を博した。
最も盛んな頃にはその数120~130人に及び、朝鮮・満洲・支那にまで招かれたものである。
これに従う蔵人1.200~1.300人を数え、これ等の人々が得る収入も多大な額となり、町の経済に寄与した。
昭和33年には寄島町酒造研究会が結成され現在に及んでいる。
会員130名で、技術の研究、人格の向上、会員の親睦と福祉の増進、および後進の養成に努力している。
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(父の話)
なおさんやたーさんが杜氏をしょうた。
冬の仕事で、寄島からの伊予の酒屋。
あやじさん(寄島や大島の)についていって杜氏になったら、夏から行きょうた。
ええ月給取りで、住み込みで
夏は時々見にいきょうた。
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岡山文庫「岡山の民族」日本文教出版 昭和56年発行 より転記
備中杜氏
発祥地は笠岡市正頭(しょうとう)である。
備中杜氏の名を得るに至ったのは文化年間といわれている。
杜氏の出身地は笠岡市大島地区、浅口郡寄島町、倉敷市玉島黒崎が多く、
農漁民である。
冬季100日間稼ぎといい、農漁閑期を利用して、秋のとり入れがすむと、一人の杜氏が六・七人の蔵人を連れてゆく郷党的集団で、春の4月5月まで滞在する。
最盛期は大正7年の米騒動ごろから昭和初期である。
黒崎町の場合、香川あたりの酒造組合へ挨拶回りをするのが重要な職務の一つだった。
蔵人の賃金はかなりよかったが、労働はつらかったようだ。
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「金光町周辺の民俗」 岡山民族学会調査報告 昭和46年発行
備中杜氏
鴨方町六条院地区は特に多く、若者のほとんが出ていた。
杜氏はそれぞれ数名から十数名の下働きをつれて、
岡山県はもとより中国・四国、中には九州や中部地方まででかけた。
昭和の初期を境に、次第に少なくなり、戦後はますます減った。
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備中杜氏(寄島町)
寄島町東安倉のKさん宅を訪ねて備中杜氏について調査した。
Kさんは現在も岡山市奥田岡山酒造の杜氏として働いている。
この地方は沿岸漁業、畑作が収入源であるがいずれも零細経営のため、酒造りの出稼ぎに行く者が多かった。
そして杜氏になることが出世することであり、100日間で一年の収入を得られるのがなによりの魅力である。
酒作りは杜氏を頭に
蔵人頭、
代司、
もとまわり、
仕込み方、
道具回し等、七つの職階に分かれており、もとまわり以上が一人前とされる。
一つ階級があがるのに2~3年期がいる。
寄島町全体では300人位いる。
杜氏の仕事は酒米の選定、
精米の程度から人間関係まで気をつかう。
11月中旬より4月末までの長い期間には、仲間割れもあった。
杜氏は互いに技量をかくしていた。
毎年同じ味の酒を作ることが大切であった。
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大島杜氏
「大島歴史散歩」大島まちづくり協議会 平成26年発行
元禄年間に、
正頭の浅野弥次郎兵衛が灘で修業して大島の杜氏の祖となりました。
正頭は水田も畑も少なく冬季は漁に行かないので出稼ぎが盛んでした。
夏は農作業や漁業の合間に専門家を招いて酒造の研修会を実施するので、
優秀な技術を持つ”大島杜氏”として有名でした。
出稼ぎ先から給料を郵便で送金しましたので、
家族が受け取りに便利なように大正8年に大島で最初の郵便局が正頭にできました。
浅口郡の杜氏人数 大正12年
大島 150人
寄島 75人
里庄・鴨方他 309人
合計 540人
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