しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

エンヤコラ

2023年08月28日 | 失われた仕事

祖母の妹は、
祖母に似ず美人だった。
祖母に似ず上品な話し方をしていた。

神戸で割と裕福な暮らしをしていたそうだが、
神戸空襲で家族と家を失い、無一文、家無し状態となった。
戦災後、茂平の実家に帰り、予科練帰りの子と二人仮住まいをしていた。
その後、笠岡町営住宅に引っ越し、小さいながらも親一人・子一人で暮らしていた。

妹を不憫と思った祖母は、
内緒の品やお金を、孫(管理人の姉)に託して町営住宅まで、こっそり届けていた。
ある日のこと、
いつものように孫(管理人の姉)が町営住宅に物を届けに歩いていると、
あの、きれいな祖母の妹がヨイトマケ姿で働いていた。
孫(管理人の姉)は「見てはいけないものを見たようで、片目をつむって走り抜けた」と話していた。

 

あるお盆の日、
「おばちゃんは千原しのぶに似ているね」
「わーっ、私、千原しのぶ大好き」
ほんとに、千原しのぶ似の、きれいな祖母の妹さんだった。

 

・・・

「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行


エンヤコラ


女性の日雇い労働者のこと。
夫が亡くなったり、事情があって働けない家庭では主婦が日雇い労働に出て一家を支えた。
ニコヨンの女性版。

昭和30年頃は、戦争で夫を失ったり、戦地から未帰還の夫を待ち続ける女性や、
着の身着のままに乳幼児を背負って引揚てきた女性、
あるいは戦災で家を焼かれ、財産を失った女性も多かった。
多くの女性は子供を育てるためにニコヨンの道を選んだ。
《世はさかさ 昔は夫人 いま人夫》

ヨイトマケの唄
エンヤコラをヨイトマケとも呼ぶ。
丸山明宏が歌う『ヨイトマケの唄』で知られるようになった。
家族のために働きぬいた女性労働者への賛歌である。

・・・

 

 

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灯台守

2023年08月28日 | 失われた仕事

「喜びも悲しみも幾年月」の映画と歌が大人気の頃、
婦人会の旅行で、母は”灯台”を見に行った。
場所は市内の六島の灯台だったが、
母の感想は、「遠くて、船が揺れて、上陸後は細い山道を登って」
散々の旅行だったと話していた。

・・・

かつて同僚で、親が「海上保安部の灯台勤務」の人がいた。
彼の話す転校等の移動は、今まで会った人の中で、一番すごかった。
北海道から鹿児島県の南西諸島まで。
裏日本・表日本、西日本・東日本、
まさに、まんべんなく移動。
居住地が、孤島か陸の孤島で、岬のとっさきは、どこも共通。
学校は、中学生の途中から、親と離れて暮らした・・と言っていた。

・・・

 

(笠岡市六島の灯台)

・・・


「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行


灯台職員(灯台守)

沖合の監視は、
灯台職員の情報と連絡で、海上保安部が停船命令を出すので、
重要な仕事であった。
雨天の日など、霧でかすんで見えにくいときは最も神経を遣う。

海の守人としての使命を感じながらも、
孤独な仕事であり、
生活は寂しくてやりきれない思いにとらわれることもあった。
夫が出張の時は妻が代役を務めた。
飲料水に乏しい、医者がいない、近所づきあいはしたくても人がいない。
子供に友人ができない。
妻の出産は、夫が産婆がわりに取り上げるなど、
日常生活での不便はあった。

・・・

(高松市男木島の灯台)

 

「失われゆく仕事の図鑑」  永井良和他 グラフィック社 2020年発行

灯台守

灯台守は1953年に約1.100人いたという。
だが灯台の運用が自動化されるにつれて減っていき、2008年姿を消した。

点灯と消灯、光源の回転、発電機の操作、燃料補給、
労働条件と生活環境。
特色として僻地勤務と転勤の激しさ。

岬の先端か孤島。
道路は整備されておらず、灯台のそばに住むしかなかった。
魚を釣り、小さい畑を耕し、雨水を生活用水にした。
転勤は数年おき、北海道から沖縄まで。

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