場所・長崎県長崎市 平和公園
訪問日・2012年5月10日
「歴史の現場」 毎日新聞 2000年発行
忘れられぬ感触
火が収まった爆心地に翌10日、午前11時ごろ忘れられない光景が幾つかある。
一つは、6~7才の子供だった。
親から教えられていたのであろう、目と耳を両手で押さえた姿勢のまま死んでいた。
市街電車は木製で、鉄の車輪だけ残し、燃えていた。
数十人の乗客は折り重なるようにして死んでいた。
「もう戦争に負けてもいい。
こんな目に遭うなら奴隷になっても、まだましだ」と思った。
背中から、
自分たちの犠牲を無駄にしないでくれと、
絶えず死者の声が蘇ってくるようにも思えるのだ。
ソ連の侵攻は、天皇始め重臣たちの終戦決意を決定的なものとした。
「泥棒を見て縄をなう」、それさえも出来ない大日本帝国の末路だった。
「一億玉砕への道」 NHK取材班 角川書店 平成6年発行
「精鋭関東軍」の現実
急激に増強されるソ連軍に対し、誰の目にも日本側の劣勢は明らかであった。
日本は敗北を予感し、ゆえに、参戦そのものがないことを願ったのである。
おおよそ、
兵員で2.5倍、
火砲で30倍、
戦車・飛行機で26倍というようにソビエト軍が圧倒的に優勢であった。
関東軍の大部分は45年に入ってからの新設であり、
素質・装備・訓練なだあらゆる点でレベルは落ちていた。
第二五師団参謀の主任は語る。
「もう兵器がないんですよ。
砲隊はありましたが砲がないんです。そんな状態でしたね。
人間の数はそろえられますわ。
在満召集でね。開拓団なんてどんどん召集されたわけですよ。
でもね兵器がなければ訓練もできませんよ」
精鋭関東軍はというのは、「精鋭」に程遠いのが実態だった。
・・・
「一億玉砕への道」 NHK取材班 角川書店 平成6年発行
8月9日未明、
170万のソビエト軍は、
モンゴル人民共和国南部国境から
沿海州地方
樺太国境
に至る全戦線でいっせいに攻撃を開始し、国境を越えた。
モスクワ放送によってソビエトの参戦を知った大本営は、
9日、
「関東軍は主作戦を対ソ作戦に指向し皇土朝鮮を保持する」
と命令。
関東軍は全戦線で敗退を重ね、満州国はいっきょに崩壊した。
関東軍に置き去りにされた民間人は、ソビエト軍の猛攻撃
の下を逃げまどい、
飢えと寒さ、
そして病いが襲う逃避行のなかで20万人余りが犠牲となった。
ソビエト参戦の報に、日本国内は騒然となった。
それにさらに追い打ちをかけるかのように、9日午前11時過ぎ、長崎に、広島に次ぐ二発目の原爆が投下された。
軍部は最後まで本土決戦遂行を主張したが、二度にわたる「聖断」を経て、14日夜、日本はポツダム宣言の受諾を連合国に通告した。
「大日本帝国崩壊」 加藤聖文 中公新書 2009年発行
ソ連の対日宣戦布告
広島に原爆が投下された情報は8月7日午前、モスクワに届いた。
戦争の果実は力でもぎ取らねば確実に味わうことができないことを熟知していたスターリンは、
その日の午後、対日軍事作戦の発動を極東ソ連軍に指令した。
8月8日、ソ連の回答を待ち続けた佐藤のもとにクレムリンに来るようモロトフから連絡があった。
佐藤に対し、モロトフは
「世界平和を求めたポツダム宣言を拒否した日本は、平和の敵であるとの理由により、
翌9日から戦争状態にはいること」を一方的に伝えた。
しかも、この
ソ連の参戦と、
ポツダム宣言への参加は、
米英中の了解のないまま行われた押しかけ参戦であった。
8月9日
朝鮮半島や満州国は多少の空襲があった程度で、ほとんど被害を被っていなかった。
そこに、突然ソ連軍が進攻し、地上戦が開始された。
こうして大日本帝国すべての領域が戦禍にまきこまれながら崩壊していく。
日本の指導層が受けた衝撃は計りしれないものがあった。
木戸は同じ日に二度天皇に拝謁したが、長崎の原爆投下は日記に一切記していない。
他の政治指導者の日記にも長崎の原爆投下は意外と少なく、
ソ連参戦一色に塗りつぶされている。
それほどソ連参戦の衝撃は大きかったのである。
・・・・・・
ここまで無残というか惨めな敗走はない。
こんなことになるなら、
4年前、ドイツに呼応して東西からロシアを攻めた方がよかった。
といいたくもなるが、それは後からなら、なんとでも言える話。
日ソ中立条約は、
ソ連は、ドイツと日本の東西で戦争したくない。
日本は、アメリカとソ連の南北で戦争したくない。
という打算だけで条約締結した。
それから4年後、
ソ連は西の戦争が終わった。
日本は南の戦争で敗北状態、戦意も武器もなかった。そもそも、食べ物すらなかった。
そこへソ連が進攻した。
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「日本歴史21 近代8」 岩波講座 1977年発行
大本営は45年4月末から本格的な対ソ戦の検討を始めた。
中国戦線を放棄するか、満州をも放棄して本土決戦に専念するか、結局は東南部の山岳にたてこもることになった。
いずれにせよソ連の参戦は、日本の戦争遂行にとって最悪の事態をまねくという認識では一致していたのである。
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「一億玉砕への道」 NHK取材班 角川書店 平成6年発行
ソ連
ロゾフスキー外務次官は1945年1月10日、モロトフに
「太平洋戦争はかなり早い時期に集結するだろう。だからその時までに我々は、
自由な手を持っていなければならない。つまり、我々は、
1945年4月13日までに中立条約の破棄通告を行わなければならない」
ところ現実には、
2月のヤルタ会談で「ドイツ降伏後2~3ヶ月以内で参戦する」密約が取り決められた。
もはや日ソ中立条約の期限満了などは問題にされなくなった。
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「一億玉砕への道」 NHK取材班 角川書店 平成6年発行
陸軍武官補佐官の浅井中佐は
4月19日にモスクワを発ちシベリア鉄道経由で帰国の途についた。
本人の話
「いやもう驚いたですよ。
ウラルを越してから、びっしりです。
駅ごとにずーと軍用列車が並んでいた。
兵隊が乗ったのとか、戦車を積んだのとか、飛行機を積んだのとか。
それはもう、アッというようなものだった」
浅井中佐は4月26日満州に入り、参謀次長川辺虎四郎中将あてに打電した。
「シベリア鉄道の軍事輸送は1日12~15列車に及び、開戦前夜を思わしめるものあり。
ソ連の対日参戦は今や不可避と判断される」
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「一億玉砕への道」 NHK取材班 角川書店 平成6年発行
ソビエトの対日参戦準備
6月27日
ソビエト軍最高司令部が対日戦略の基本構造を決定した。
三方面から満州内陸部に侵攻し、奉天、長春、ハルビン、吉林などの中心都市を占領するというもので8月20日~25日と予定した。
すでに前年12月1日からソビエト軍最高司令部は、極東への兵器、弾薬、燃料、食糧などの輸送を開始していたが、
4月の日ソ中立条約不延長通告後、
シベリア鉄道の輸送力が大幅に引き上げられるとともに、物資の輸送が本格化した。
その情報はモスクワの日本大使館にも伝えられて、ソ連の対日参戦が切迫しているという不安を掻き立てていた。
当時の一等書記官の証言
「毎日1万の兵隊が極東に動いているというのだよ。
こうなればもう戦争は明らかですよ。
我々の計算では、まあ3ヶ月はかかるだろうと思った。
我々は8月の初め一週間か10日ぐらいの間に戦争が起こるだろうと、本省に電報したんですよ。
で、その通りになっちゃった。
誰もそれを読む人はいなかったという話ですけどね」
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「一億玉砕への道」 NHK取材班 角川書店 平成6年発行
1945年7月5日「対露作戦計画」が決定された。
いよいよとなったら、新京を頂点とし鴨緑江を底辺とする三角形の地域に陣地を築き、
長期持久戦に持ち込もうとするものだった。
構想は1月で、極秘に準備が進められていった。
満州から朝鮮北部に居住していた約180万の日本人にも、この計画は知らされなかった。
したがって、8月にソビエトが侵攻してきたときには
住民の期待を裏切り、軍隊の方が住民より先に移動していて、
「棄民」といわれるような事態が生じる結果となった。
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「一億玉砕への道」 NHK取材班 角川書店 1994年発行
日本
8月6日、モロトフがモスクワに帰ったきたことを知った佐藤は、さっそく会見を申し出た。
翌日、モロトフは8日午後8時(日本時間9日午前2時)に会見する旨伝えてきた。
しばらくして8日午後5時(日本時間8日午後11時)に改めた。
その変更が、日本時間を考慮してなされたことに、佐藤がきづくはずもなかった。
日本の戦争指導者たちは、藁をもつかむ思いでモロトフとの会見結果を待った。
モスクワの佐藤大使も
「なんとしても近衛特使の派遣を承認させたい」と意気込み、
指定時刻にクレムリンに入った。
8日約束の時間にクレムリンを訪れた佐藤は、近衛特使に関する回答がなされると思っていた。
だが佐藤を迎えたモロトフは、佐藤の口を封じるように、一方的に言い放った。
「ソ連政府はあす、すなわち8月9日から日本と戦争状態に入る」
日本への宣戦布告であった。
これによって、ソ連の仲介による日本側のはかない望みは絶たれた。
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「一億玉砕への道」 NHK取材班 角川書店 平成6年発行
ソ連参戦
昭和20年7月10日の最高戦争指導者会議で、天皇の親書を携えた特使(近衛文麿元首相)をソ連に派遣し、ソ連に連合国との間に和平の仲介を依頼することを決定していた。
しかしソ連は回答を与えず、引き延ばしをはかった。
そしてポツダム宣言が終わったあと8月7日になってようやく、モロトフ外相は、
翌8日に中ソ大使佐藤尚武と会見すると伝えた。
日本の戦争指導者たちは藁をもつかむ思いでモロトフとの会見結果を待った。
佐藤大使も「なんとしても、近衛特使の派遣を承認させたい」と意気込み、
指定時間にクレムリンにはいった。
だが、佐藤を迎えたモロトフは、佐藤の口を封じるように、一方的に言い放った。
「ソ連政府はあす、すなわち8月9日から日本と戦争状態に入る」
開戦の通告であった。
日本側のはかない望みは耐たれた。
蜃気楼にも似た「幻想」だったのである。
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終戦間際の日ソ交渉ほど、みじめな外交交渉はない。
「溺れる者は藁をも摑む」を、国家が実行した。
ここまできても、なお
「死中に活を求める」案すら出せず、ソ連にすりよるだけで、最後に侵攻された。
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「一億玉砕への道」 NHK取材班 角川書店 平成6年発行
「対ソ静謐(せいひつ)」
「一億玉砕」本土決戦
太平洋の島々での戦いではことごとく敗戦を重ね、もはや日本の敗戦は必至とも見えるこの時期、軍部はどのような心づもりで本土決戦をのぞもうとしていたのか。
対外政略の唯一の目標としてあげられたのが「対ソ静謐(せいひつ)の保持」であった。
アメリア軍を迎え撃って本土決戦を行うためには、北方のソビエトとの安定が絶対条件であった。
唯一絶対の条件であった。
1943年11月、
テヘランで開かれた米英ソ首脳会談で、改めてソビエトの対日参戦は確認された。
12月15日、スターリンはハリマン大使に対日参戦の政治的条件として
「千島列島と南サハリンはロシアに返還されるべきだ」と述べ、
さらに旅順・大連、満州鉄道・中東鉄道、外モンゴルの承認を要求した。
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最高戦争指導会議(5月11日)
東郷は世界情勢を説明しつつ、激しく反論する。
「もはやソビエトを軍事的・経済的に利用しえる余地はない。
日本が手をこまねいてる間にカイロ宣言、テヘラン会談、さらにヤルタ会談となったのだ。
好意ある態度を誘致するとかいっても手遅れである」
鈴木首相の提案で、
ソ連の参戦防止、
好意的中立、
戦争終結に仲介させる。
とくに戦争の終結がはじめて正式に検討されたという点で重大な意味を持つ。
5月14日にも開催され、
まずソビエトに提供すべき代償について話し合われ、次のような代償提供を覚悟することで意見の一致をみた。
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「終戦史」 吉見直人 NHK出版 2013年発行
東郷の謎
東郷が当時推し進めようとした対ソ工作は、戦後「幻想の対ソ工作」などとも称されてきた。
なぜ、すでにヤルタ会談で対日参戦の密約を交わしたソ連に対して甘い期待を抱き、
米英への和平仲介を頼むなどという理解に苦しむ外交交渉をやったのか。
当時外務省政務局第一課長だった曽祢益も戦後、
「泥棒に警察官を頼むようなもの」と回想している。
天皇の意向
そもそもモスクワに特使を派遣する案は、東条内閣、小磯内閣と
繰り返しソ連に申し入れ、いずれも拒絶されている。
この時(7月12日)、昭和天皇は戦争終結を急いでいた。
アメリカは、東京の東郷外相とモスクワの佐藤大使の往復電報をすべて傍受、解読していた。
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「スイス諜報網の日米終戦工作」 有馬哲夫 新潮選書 2015年発行
1945年5月14日、最高戦争指導会議は、ソ連を仲介として終戦交渉を行うことを決定していた。
この時、交戦国である英米が、日本が受け入れられる条件を示していたなら、この段階で戦争は終わっていた可能性がある。
その条件とは国体護持と天皇制存置だった。
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「一億玉砕への道」 NHK取材班 角川書店 平成6年発行
ソ連外交への甘い期待
1945年1月の時点では、ソ連は4月までに中立条約破棄を通告することは決めていたが、
中立条約の無視・対日参戦については、結論を出すに至っていなかった。
ところが現実には、2月のヤルタ会談で「ドイツ降伏後、2~3ケ月で対日参戦する」という密約が取り決められた。
戦局の予想外の進展である。
ソビエト軍の大攻勢で独ソ戦が予想より早く帰趨が明らかになり、対日参戦にできると考えられた。
また、
太平洋の米軍の進撃状況から、一年もたてばもうソビエトの参戦は必要としなくなるという判断があった。
戦後を見据えていたソビエト
駐日ソビエト大使・マリクは1944年7月21日にモロトフに報告書を提出している。
マリク大使は
日本の無条件降伏後、米英が日本に対して取ろうとしている措置に無関心であってはならない。
とくに、ソビエトの極東地域に隣接していて現在日本の支配下にある地域
(満州、朝鮮、対馬、千島列島)
が、日本から他の大国に手に渡ることを決して許してはならない。
同じ頃、
「絶対国防圏」を突破された日本は、ソビエトの中立条約尊守を希望するだけにとどまらず、・・・・
再開された広田・マリク会談
6月24日、
しばらくぶりに広田・マリク会談が再開された。
広田は、
和平を望む日本に対しソビエトが好意的態度をとるかどうか?
その場合、どの程度の代償を日本に要求してくるのか?
感触をつかもうとした。
しかし議論はまったく噛み合わなかった。
6月29日
広田は日本からの具体的提案を用意した。
日ソ間の永続的親善関係を樹立し、東亜の恒久的平和維持に協力することとし、
日ソ不侵略の協定を締結する。
この条件として、次の三点をあげていた。
一、満州国の中立化(日本軍の撤兵)
二、ソビエトから石油を供与してもらえる場合は、ソビエト水域での漁業権放棄
三、そのほか、ソビエトの希望する諸条件について論議する用意がある
広田は、これを早くモスクワに伝えてほしいと述べた。
マリクは「考慮する」とだけ述べた。
実際、日本の提案は、検討にも値しないようなものだった。
・・・
ソビエトと米英の協力関係に楔を打ち込み、
ソビエトを枢軸国に取り込むという現実離れした構想を本気になって推進しようとしていた。
ご都合主義にはしった日本の外交が、いかにお粗末なものであったかを実感せずにはいられない。
・・・
ソビエトへの和平仲介依頼
6月29日の広田・マリク会談で、日本側からいちおうの具体的提案を提起したにもかかわらず、マリクからの返答はなかった。
モスクワの佐藤大使のもとに7月13日、緊急電報が届いた。
「(ポツダムの)三か国会談開催前にソビエト側に戦争終結に関する大御心を伝え置くこと」
日本政府は、はじめて戦争の終結に関して、ソビエト政府に申し入れるよう命じたのである。
天皇の親書を携えた近衛文麿を特使として派遣したい旨をモロトフに直接申し入れよというものだった。
日本への回答はまたもや遅れる。
佐藤は7月15日東郷外相へ、
「無条件」という条件はつけない無条件降伏を主張し、
同時に、
近衛の交渉次第で無条件降伏でない講和が可能だと考えるような「幻想」は打ち砕こうとしたのである。
・・・
7月17日佐藤大使の親展が届いた。
それは、事実上の特使受けれの拒否の回答だった。
「ソビエト政府にとって特派使節の使命がいずれにあるやも不明瞭であります」
天皇の威光がソビエトに届くはずもなかった。
7月20日、
佐藤は東郷外相に最後の意見電報を打電した。
「敵の絶対優勢なる爆撃砲火のもと、すでに交戦力を失いたる将兵および国民が全部戦死を遂げたりとも、ために社稷は救わるべくもあらず。
7千万の民草枯れて上御一人ご安泰なるをうべきや。
すでに互角の立場にあらずして無益に死地につかんとする幾十万の人命をつなぎ、
もって国家滅亡の一歩手前においてこれを食い止め7千万同胞を塗炭の苦より救い、
民俗の生存を保持せんことをのみ念願す」
日本国内ではまだ誰も言い出せなかったことを、佐藤は意を決して、モスクワから政府に訴えかけようとした。
「祖国の興亡この一電にかかるとさえ思われ、書き終えて机に伏す。涙滂沱なり」
と日記に記している。
7月25日、
再度佐藤は特使派遣の仲介を申し入れた。
・・・