しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

名古屋・陸軍第三師団

2023年08月06日 | 「戦争遺跡」を訪ねる

場所・愛知県名古屋市中区  特別史跡「名古屋城跡」  
訪問日・2018.9.15

 

明治維新により、戦目的だったお城は、当然のことのように、戦争目的の軍がお城を引き継いだ。
尾張名古屋の名古屋城には陸軍第三師団と歩兵六聯隊が置かれた。

現在は師団司令部の煉瓦塀だけが300mほど残っている。



「愛知県の歴史」 塚本・新井著 山川出版社 昭和45年発行

昭和20年5月14日の朝から440機のB29が来襲して、低空から焼夷弾の雨を降らせた。
名古屋市民がほこりとしてきた名古屋城の天守閣は、猛火のなかで2時間も燃えつづけたあと、くずれおちた。
昭和19年、130万をこえた市の人口は、空襲と疎開で50万前後まで減った。





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広島大本営

2023年08月06日 | 「戦争遺跡」を訪ねる

場所・広島県広島市中区基町  
訪問日・2016年3月31日  

 

日清戦争当時(明治27・28年)、広島市の広島城跡の陸軍第五師団に大本営が置かれた。
広島の大本営は2年間で終了したが、
第五師団は昭和20年8月15日まで存続した。
宇品港と一体化した軍都として広島は大いに栄えていた。

 

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中国軍管区司令部跡
Wikipedia
中国軍管区司令部跡(ちゅうごくぐんかんくしれいぶあと)は、広島県広島市中区基町にある、大日本帝国陸軍中国軍管区司令部防空作戦室の遺構。旧陸軍の防空作戦室は全国に6ヶ所あったことはわかっており、ここは現存唯一のものになる。広島市への原子爆弾投下の第一報を外電した場所であり、現存する被爆建物の一つ。国史跡広島城址公園内にあり本丸を囲む内堀の石垣付近に位置し、広島護国神社境内隣にある。半地下式鉄筋コンクリート平屋造。入り口には広島市により原爆被災説明板が設置されている。

歩兵第十一連隊 跡
池田勇人の像の南側の木陰にある歩兵第十一連隊の跡です。広島城の内堀の東側の広大な場所、現在の裁判所や合同庁舎をすべて含むこの連隊の敷地でした。
明治初旬の萩の乱から始まって、西南戦争、日清戦争、シベリア出兵、日中戦争などに出兵し、太平洋戦争においてはマレー作戦に参加しています。日本近代の主な戦争において重要な役割を果たしました。そういった歴史が書かれている。
歩兵第十一連隊の門柱。東から撮影したもので、奥に見えるのは広島城本丸の石垣で、手前は内堀です

広島陸軍幼年学校 跡
「明治維新」後、「広島城」には陸軍の「第五師団」が置かれ「日清戦争」の最中である1894(明治27)年9月には、軍を指揮する「大本営」が、東京から前線に近い広島に移された。明治天皇も広島に滞在し、一時、広島は日本の首都機能を果たしていた。1894(明治27)年10月に開催された「第7回帝国議会」は「広島臨時仮議事堂」で開催されている。








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「広島県の歴史」 岸田裕史著 山川出版社 2012年発行

第5師団
昭和12年7月7日、盧溝橋の日中両軍が衝突後、
第9旅団(歩兵11聯隊・広島、歩兵41聯隊・福山)が出動。
長城戦に参加。済南・徐州・広東・ノモンハン・ベトナム他にわたる戦闘や警備に従事した。
特に被害の大きかったのは、昭和14年のノモンハン事件である。
広島で編成された歩兵71聯隊の死傷率は94%に達し、全参加部隊中の最高率を示し、事実上全滅の状況であった。

太平洋戦争がはじまるとマレー半島に上陸した。
昭和17年2月からの「華僑粛清」では、日本側が認めただけでも5.000人。
地元では4~5万人が虐殺されたといわれている。

この後、第5師団の部隊は、終戦まで豪北(ソロモン・ニューギニア)方面、
ジャワ島・ミンダナオ島・レイテ島などを転戦した。

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佐世保鎮守府

2023年08月06日 | 「戦争遺跡」を訪ねる

場所・長崎県佐世保市 
訪問日・2012年5月12日  


「日本の遺跡と遺産⑦戦争遺跡」 岩崎書店 2009年発行

佐世保を造船の町として大きく発展させた鎮守府と海軍工廠
佐世保鎮守府関連遺跡


鎮守府というのは、日本の海を4つの海域に分け、
それぞれの海域警護のために置かれた海軍の重要な機関です。
九州方面の海軍根拠地として佐世保に鎮守府が置かれたのは1889年(明治32)のことでした。
1903年には大きな造船所を持つ海軍工廠もつくられ、佐世保は軍港であるとともに、
日本屈指の造船都市となりました。

現在も市内には、軍港時代のレンガ倉庫群、鉄筋コンクリート造りの司令部の建物、レンガ造りの弾薬庫群、海軍工廠のドッグやクレーン、
20か所あまりの工場建築物群などが残されています。






海軍の少年兵(予科練生)だったおじは、四ある鎮守府を、それぞれ
「よこちん」「つるちん」「くれちん」「させちん」と呼んでいた。

佐世保鎮守府は九州の他、朝鮮半島にある要港・鎮海も管轄区域。
有名な電文「チンタツサセニコイ」は、鎮海を発ち佐世保に行く兵が妻に送った電報。

 







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舞鶴鎮守府(赤煉瓦倉庫群)

2023年08月06日 | 「戦争遺跡」を訪ねる

場所・京都府舞鶴市 「舞鶴赤れんがパーク」
訪問日・2013.8.12

旧大日本帝国海軍「舞鶴鎮守府」跡。
舞鶴鎮守府は1901年開庁、
その後ワシントン軍縮条約で1923年要港へ格下げ、
1939年鎮守府に復活した。
1945年、敗戦により廃止。

戦後は海上自衛隊や公園として使用されている。
赤レンガは保存と見栄えが良く、映画やテレビに登場する。

シベリア拘留者の引揚で有名な舞鶴港は、ここから数キロ離れている。










「続しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行

国道27号線沿いに赤煉瓦倉庫群がある。
これらは舞鶴鎮守府の軍需品等の保管倉庫として、
1900(明治33)年~1921(大正10)年までに建てられたものである。
1904年には、軍港引き込み線が開通し、倉庫内まで線路を引き込み、物資の運搬にあたった。


舞鶴の赤煉瓦造物は114例あり、
そのうち赤煉瓦倉庫は12棟、
うち10棟は現役で使用され、2棟はれんが博物館、市政記念館で保存活用されている。






「日本の遺跡と遺産⑦戦争遺跡」 岩崎書店 2009年発行

舞鶴市立赤れんが博物館
日本海の警備と防衛を任務とした鎮守府と軍港の施設群
舞鶴鎮守府関連施設

舞鶴鎮守府は、ロシア海軍に対抗するための日本海側の軍事拠点として、
1901年(明治34)に設置されました。
1903年には舞鶴海軍工廠が開設されました。
日本が日露戦争に勝利すると、しだいに重要性が低下していきました。
1923年(大正12)にワシントン海軍軍縮条約により、鎮守府から要港部に格下げされました。
同時に海軍工廠も工作部に格下げとなりました。
昭和にはいり、軍事力増強が活発化するとともに、1936年工作部は工廠に昇格し、
19389年には要港部もふたたび鎮守府に格上げされました。

現在も舞鶴市に残る鎮守府関連の建物と現状は、
①旧舞鶴海軍工廠
②12棟の赤レンガ造りの倉庫群
③旧兵器廠魚形水雷庫
④旧雑品庫ならびに損兵器庫
⑤旧弾丸庫並小銃庫
⑥旧海軍機関学校大講堂

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