しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

塩飢饉

2023年08月19日 | 昭和20年(戦後)

茂平の苫無の松林の西側(内海=うちうみ)に沿って、塩田跡が残っていた。
「戦争が終わって2~3年ほど、ここで塩を作っていた」という話だった。

茂平の塩田は入浜式の塩田ではなくて、
「安寿と厨子王」の、安寿がしていた桶で汐汲みの”揚浜式”の製塩だった。
戦中から戦後の一時期は、原始時代に戻ったようなことを、
大真面目に、そして一途にして、その日の生活をやりくりしていた時代だった。

 

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「岡山の女性と暮らし 戦前・戦中の歩み」 岡山女性史研究会編  山陽新聞社 2000発行

自家製塩の奨励

塩田労働者を徴兵・徴用で奪われて、塩の生産も落ち込んだ。
前年晩秋から、漬物用の塩の不足が問題となり、
この5月、国は専売法での製塩制限を撤廃して、自家用製塩の奨励を始めた。
曲折した斜面を作り、何度も海水を流して17度程度のかん水にして、煮詰めれば一日一キロの塩は取れると指導したが、燃料不足で不可能とわかった。
かん水をそのまま利用せよ、という指導に変わった。

さらに輸送不足も加わり、漬物用塩の特配が遅れ、山間部で深刻な問題となった。

 

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「瀬戸内の産業と交通」 横山昭市  瀬戸内海環境保全協会 昭和54年発行


塩飢饉
第二次大戦が激しくなると、
入浜式塩田も資材や労働力の不足で荒廃し、
塩の生産量も激減した。
戦時中から戦後にかけての塩飢饉の苦い経験から、政府も食塩の増産に本腰を入れた。
昭和25年頃にはほぼ戦前の生産量に復興した。

 

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「福山市引野町誌」 引野町協議会  昭和61年発行


戦後の自給製塩


第二次大戦末期から終戦直後にかけての塩の需給
殊に民需関係は急迫状態に陥っていた。
味噌醤油の製造販売を期生したほどであったから、
始めから専売の塩は手にはいらない状況であった。
戦争、直後の思い出に、
海水を汲んできて煮詰めて塩を作ったとか、
蓆(むしろ)に海水をかけ、乾くのを待ってパッパとふるって塩を作ったなどという話がたくさん残っている。

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「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行

沙美まで行って樽に海水を汲んできて煮詰め、塩の代わりにしたこともある。

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父の話 (2005.1.15)


小迫に塩田もあった、若いもんがしていた。

野々浜の塩田はあったが、作る仕事をしょうるのを見たことはない。広かった。

 

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「岡山県史・現代Ⅰ」

昭和5年第二次塩業整備が行われた。
小田郡神島内村の神島浜や横島浜などが廃止された。
塩田で働く労働者を浜子、
塩田での作業のことを採鹹(さいかん)作業と言った。


入浜式塩田での採かん作業には長年の経験が必要であるうえ、
夏の炎天下の重労働でもある。
第二次世界大戦中には多くの浜子が徴兵され、労働力不足から塩田が荒廃し、
塩の生産量も著しく低下した。
いったん廃止されていたものが、
戦後の塩飢饉時代に自給製塩と言うことで復活した。

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「戦争中の暮らしの記録」

海水のおかゆ

私の生家は、岡山県笠岡市の隣村で、旧制中学の先生をしていた父は、
ヤミ物資には絶対手を出さぬようにと、いつも母にいっておりました。
味付け用の塩が、配給だけではとても足りません。
困った挙句の果て、母は一里ほど先にある瀬戸内海の海水利用でした。
近所の人二人を誘って三人で、大八車に二斗樽を三つ積み込んで出かけて行きました。
帰りは一人が梶を持ち、二人が後押しです。
フタのない樽もあり、車が揺れるたびにポチャンと海水がはねます。
顔は汗とほこり、
モンペは、はねた海水と汗で白く、
こうして、
海水で味付けしたお粥が夕食なのです。

現在、私が主婦となり、あの頃の母の年齢に近くなってきますと、
あの苦しい暗い時代を、よくぞ病気もしないで、みんなをみんな守って来てくれたものと
つくづく思います。

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天声人語 【昭和20年】~以徳報怨(徳をもって恨みに報いる)演説~ほか

2023年08月19日 | 昭和20年(戦後)

図書館から文庫本「天声人語」を借りた。
その時代が、感じられて興味深い。

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昭和20年の「天声人語」

 

昭和20(1945)年 9・12

お役所仕事


アメリカの進駐軍は、たった2日間で、横浜の桟橋から、厚木の飛行場まで、
ガソリン油送管をひいてしまった。
代々木練兵場の幕営にしても、一夜のうちに機械力を駆使して、街路ができ、キャンプが設営され、井戸が掘られ、浄水装置までつくられた。

司令部における士官たちの執務ぶりでも、手紙ひとつがきても、すぐ速記者に口述してタイプを打たせ、上官の署名を得てただちに発送されるなど、水の流れるように事務がさばかれてゆく。
また日米間の交渉的なことでも、こちらの言い分を正当と認めれば、遅滞なく命令に移されて、てきぱきと処理される。

わがお役所仕事は、お役所仕事の効率があがらないということであった。
一つの許可を受けるにしても、あちこち回って、たくさんの判を貰わねばならないし、数省に関連したものなどは、お百度参りをやらねばならない。

 

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昭和20年9月16日

学び得たこと  

敗北によって今次の戦争で、いろいろと喪うところが多かったのは、万やむを得ないことだ。が、
一方、この戦争によって、得るところ、学び得たことも、すくなくない。

学徒が、学業を中止して職場に赴いたことなどは、教育本来の形からいえば、やはり喪うところが多いことではあった。しかし、
男女の学徒がいろいろな職場に仕事を持ち、勤労の本体に触れ、世の中を見たその体験は、日本国民にプラスした。

今一つ、この戦争の収穫がある。
婦人の実社会への進出がそれである。

配給、防空等に関する仕事によって、日本の女性は、戦争と取り組み戦争経済の中に没入した。
そのことによって、婦人は、
日本政治経済の動きを見、それを通して、戦争政治を感じることができた。

約言すれば、日本女性は、社会人的要素を、この戦争によって獲得したという訳である。

 

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10.22


愛林精神  

戦災者救済の簡易住宅も、冬が迫るのに一向進捗していない。
木は伐っても、輸送に隘路があるということだ。
日本は森林が国土の七割を占めて森林国といわれるが、蓄積が貧弱なために、大正10年以後は、年々数百万石を輸入する状態であった。 

支那事変が始まって輸入がとまった上に、大東亜戦争となってからは、
軍用材、木造船、坑木その他膨大なる戦時要請に応ずるために林力を消耗する増産が行われ、ついには
神社仏閣の名木や、由緒ある街道の並木まで伐られるにいたった。

こうしていたるところ森林の過伐、乱伐を招来したのである。

 

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昭和20・11・10


隣邦融和

思うに8月15日の終戦の大詔が、日本人をして一糸乱れず聖断に帰一し奉る効果をもっていたのに対して、
中国にあっても、蒋主席の一段よく四億の兆民を心服せしめるに足りるものがあった事実は永久に忘れるべきではない。

「暴に報いるに直を以てし、讐に応えるに恩を以てす」とは、
実に終戦当時に同主席が中国駐屯の日本軍と、在住の日本人とに向かって放送したところであり、
寸言をもって中国人の痛憤を宥めると共に、増上慢の絶頂から麻のごとく乱れる失意のどん底に転落しつつあった日本人の心緒に深刻なる猛省を強いるに足りるものがあった。

まさに「恩讐の彼方」以上の寛仁大度というべきで、
遺憾ながら道徳上の大人と小児との距たりを見せつけられた観があった。

 

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昭和20・12.6

戦争犯罪容疑者 

戦争犯罪容疑者の数が次々に殖えて、二百十八名を算するに至った。
近年各界の表面に活躍して来た有力者が束にして、隔離されて行く結果、否応なしに政治経済文化の形態と内容とが急変していくに相違ない。

幣原首相は議会の答弁において、
大戦の責任は国民になく、
また天皇の統治上の行動については国務大臣が一切の責任を負うべきものといっている。

しからば、
その両者の中間に立って、統治と戦争とに関するすべての責任を分かつべき人々はもっと多数あるはずで、
連合国の指名を俟つまでもなく、自ら罪し、自らを葬る者が続出して然るべきではないか。
いち早く権力に阿附して、反対派を葬ることのみ夢中になって世の中を暗くし、政道を誤らせてきた卑怯な民間人を一掃する必要がある。

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