茂平の博労は、ますらおさんが一手に引き受けていた。
ますらおさんは自転車に乗って、農家を訪問し、
世間話と、牛の話と、必要に応じ牛の世話をしていた。
村中で見かけるので、ますらおさんは村では有名人だった。
一度、家の牛がお産をした時、ますらおさんが親牛に身を寄せて一体となって産まれるまで世話して姿を忘れられない。
昭和35、36年頃テーラーが普及し、農家から牛が不要になった。
その頃、ますらおさんも高齢で、牛の世話から身を引いた。
今思い出しても、仕事ではあるが牛が大好きな顔した、ますらおさんだった。
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「金光町周辺の民俗」 岡山民俗会 昭和46年発行
博労(牛の仲買人)
博労は、牛を飼育している家に出かけて、売買の話をする。
両者の間で「なんぼう」と値をいいあう。
話が成立したら「手を打つ」といって手打ちをしていた。
手を売ったら、
博労は入金として15%を支払い、
牛を追いに来るときには全額を支払っていた。
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「金光町史 民俗編」 金光町 平成10年発行
博労は
適当な時期を見計らって売買を持ち掛け、
出産や病気の手当ても、
普通は博労が世話をしていた。
獣医に依頼するようになったのは、
第二次大戦後のことである。
博労は牛市で、
売買した牛を追子に追わせて歩いて輸送していた。
農家は一、二歳の若牛を買い、
五、六年あるいはそれ以上飼う。
仔牛は、
牡の場合は三、四ヶ月で離乳し早く売り、
牝の場合は五、六ヶ月で離乳し、一年ぐらいで売り出した。
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「鴨方町史民俗編」 鴨方町 昭和60年発行
牛の取引は、ほとんど博労を通して行われ、市場まで行く人は稀であった。
博労は町内に数人おり、他に里庄や矢掛からも来ていた。
博労はそれぞれ得意先を持ち、
売買だけでなく平素から爪を切ったり、病気の手当てをしたり、いろいろと面倒を見ていた。
仔牛の売買は、博労がやってきて農家の庭先で行われるのが普通で、庭先取引といわれた。
農家から買った仔牛は、尾道市場へ出すことが多い。
廃牛の場合は、尾道・高梁・倉敷など。
農家へ入れる牛は、千屋や高梁で仕入れることが多かった。
万人講
不幸にして牛が死んだときは、村の人々が万人講をしていた。
世話人が家々を回って寄附を集め、そのお金で御祈祷したり、供養会したり、道端に供養碑を建てたりした。
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