しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

博労

2023年08月26日 | 失われた仕事

茂平の博労は、ますらおさんが一手に引き受けていた。
ますらおさんは自転車に乗って、農家を訪問し、
世間話と、牛の話と、必要に応じ牛の世話をしていた。

村中で見かけるので、ますらおさんは村では有名人だった。
一度、家の牛がお産をした時、ますらおさんが親牛に身を寄せて一体となって産まれるまで世話して姿を忘れられない。

昭和35、36年頃テーラーが普及し、農家から牛が不要になった。
その頃、ますらおさんも高齢で、牛の世話から身を引いた。
今思い出しても、仕事ではあるが牛が大好きな顔した、ますらおさんだった。

 

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「金光町周辺の民俗」 岡山民俗会  昭和46年発行

博労(牛の仲買人)


博労は、牛を飼育している家に出かけて、売買の話をする。
両者の間で「なんぼう」と値をいいあう。
話が成立したら「手を打つ」といって手打ちをしていた。
手を売ったら、
博労は入金として15%を支払い、
牛を追いに来るときには全額を支払っていた。

 

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「金光町史 民俗編」 金光町  平成10年発行

博労は
適当な時期を見計らって売買を持ち掛け、
出産や病気の手当ても、
普通は博労が世話をしていた。
獣医に依頼するようになったのは、
第二次大戦後のことである。

博労は牛市で、
売買した牛を追子に追わせて歩いて輸送していた。
農家は一、二歳の若牛を買い、
五、六年あるいはそれ以上飼う。
仔牛は、
牡の場合は三、四ヶ月で離乳し早く売り、
牝の場合は五、六ヶ月で離乳し、一年ぐらいで売り出した。

 

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「鴨方町史民俗編」 鴨方町  昭和60年発行

牛の取引は、ほとんど博労を通して行われ、市場まで行く人は稀であった。
博労は町内に数人おり、他に里庄や矢掛からも来ていた。
博労はそれぞれ得意先を持ち、
売買だけでなく平素から爪を切ったり、病気の手当てをしたり、いろいろと面倒を見ていた。

仔牛の売買は、博労がやってきて農家の庭先で行われるのが普通で、庭先取引といわれた。
農家から買った仔牛は、尾道市場へ出すことが多い。
廃牛の場合は、尾道・高梁・倉敷など。
農家へ入れる牛は、千屋や高梁で仕入れることが多かった。

万人講
不幸にして牛が死んだときは、村の人々が万人講をしていた。
世話人が家々を回って寄附を集め、そのお金で御祈祷したり、供養会したり、道端に供養碑を建てたりした。


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瞽女(ごぜ)

2023年08月26日 | 失われた仕事

瞽女は江戸時代末期まで、瀬戸内地方にもいたようだが、
明治以降は東日本、特に越後が有名になった。

昭和30年代で旅芸人としては消滅したが、現在は芸が伝承されている。

 

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「失われゆく娯楽の図鑑」 長瀬聡 グラフィック社 2022年発行

瞽女

瞽女(ごぜ)は、三味線を弾きながら、瞽女唄を歌い、
全国を回る盲目の女性旅芸人の歴史的名称である。

公的な福祉のない時代、
目の不自由な女性たちの生活手段は灸、按摩、三味線など限られていた。

当時の農村は娯楽が少なく、
瞽女の興行は行く先々で歓迎された。


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「瞽女(ごぜ)の世界を旅する」  大山真人 平凡社 2023年発行

ごぜとは、村々を門付けして歩く盲目の旅芸人をいう。
江戸時代いは各地に存在したが、戦後廃れていく。
最盛期、上越高田には17軒のごぜ屋敷があり、
それぞれが組をつくり、越後や信州の村々へ喜捨(きしゃ)の旅に出た。
重い荷物を背負った不自由な道のりは大変過酷なものだったというが、
今では失われてしまった「人の情け」が確かに存在していた。

ごぜというのは目明き(健常者)の「手引き」に導かれ、
村々を門付け(玄関先に立ちごぜ唄を披露して米や金を得る)して歩く、
盲女の旅芸人たちのことを指す。

日常生活の基本はひとり
キクエ(明治31年=1898生)は自由に闊歩できるわけでないが、
自分の座るべき場所にきちんと座ることができた。
いつもきれいに銀杏返しに結い、
柘植の櫛をさして白い元結で髪を縛る。
きちんと和服を着こなし、帯をきりりと締める。
すべて一人でこなすのである。
裁縫の簡単な繕いものは自分でする。
針に糸を通すのも簡単にやってのける。
「上の歯と下の歯で針の穴を噛むようにして、右手に持った糸を舌を使って通すのさ」
「手甲でも脚絆でも縫ったもんさ」

稽古
三味線と唄だけで商売するという意味では、スキルの上達は絶対であった。
一年の大半を旅し、高田にいる時間の大部分を稽古に費やした。

旅支度
一年のうち、高田にいるのは一ヶ月。旅に明け暮れる生活。
期間は20日~2ヶ月。
晴れ着ひと揃い。
湯上り・寝巻。
袢ちゃ(羽織のようなもの)
髪箱(油や櫛)
チリ紙、石鹸、手拭い、歯磨き粉、新聞紙
薬箱(毒消し・胃腸薬・ヨードチンキほか)
合羽
弁当箱
三味線二挺。
合計15キロにもなる荷物を背負い、一日何里もの道を歩いた。

歩き方
ごぜは3人~5人がひと組になって歩く。
道先案内人の健常者を先頭に、手引きの荷物を手にあてがい、まるで運動会のムカデ競走のように、一列縦隊になって歩いた。
村に着くと、泊る家(ごぜ宿)に荷物を降ろし、
空身になって三味線一挺と袋(喜捨の米などをいれる)を持って、
一軒ずつ門付けをして歩く。
これは今夜ごぜ宿で行われる宴会を知らせるためでもあった。
宴会は午後10時頃まで賑わった。
早朝に朝食をいただき、
空の弁当箱にご飯とおかずを詰めてもらい、礼をいってその宿をあとにし、次の村に旅立つ。
農繁期の6月10月は収入減になった。
貯まった米は、途中にある米屋で換金した。

キクエの失明
数え年6歳の時麻疹にかかり、それが原因で失明した。
高田には盲学校があったが、
入学者の大半が男性で、それも富農の子どもに限られていた。
父親に
「おまんは、按摩さになるか、ごぜになるか」
と聞かれ、ごぜを選んだ。

はなれごせ
組織から離れたごぜは一人で生きていくことを強いられた。
目の不自由な彼女たちは、組織をつくり、そこで決められた「掟」
を遵守することで、自分たちも守られた。
「女」であるごぜの敵は「男」である。
男に走ったごぜは、
そのまま幸せな生活を送ることができればいいのだが、
大半のごぜは男に捨てられた。
組織に戻ることを放棄したごぜを「はなれごぜ」と呼んだ。
「はなれごぜ」はひとりで商売しなくてはならない。

 

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「人づくり風土記新潟」 農山漁村文化協会 1988年発行

 

血みどろな修業


入門すると、まず、
行儀作法が徹底的にしつけられます。
これは瞽女の道が、
客の所望によって披露する芸道であったほかに、
毎夜、人の情けを頼って泊まり歩く受け身の稼業であったからでしょう。
瞽女修業の厳しさは、座頭やチョンガレ語りなどの男性盲目集団の比ではなかったといいます。
目明きのやることは盲目でもできるようにとしつけられます。

三味線の道を覚えるのに三年、
本調子・二上り・三下りを自分で聞き分けて弾けるようになるまで七年かかるといいます。

声を生命とする瞽女には寒三十日の「寒声」(かんごえ)は大切な修業でした。
喉をきたえるため寒中約一か月、
早朝または夜間、屋内で戸を開け放って薄着になって行うものと、
吹きさらしの屋外の雪の上に立って行うものとがあります。
寒声の修業に五人に一人は、この道をあきらめて親元に帰ったといわれています。


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