BOB DYLAN / BRINGING IT ALL BACK HOME
BOB DYLAN / HIGHWAY '61 REVISITED
60年代のボブ・ディラン特集、第2回。今回は65年です。ディランが「BRINGING IT ALL BACK HOME」で電化し、ビートルズが「RUBBER SOUL」で大人になった、まさにロック誕生の年です。
1963年、「風に吹かれて」からプロテスト・フォークの旗手へと一気に駆け上ったボブ・ディランでしたが、そのようなレッテルに違和感を覚え、翌64年、早くもその旗を降ろしてしまいます。4th作「ANOTHAER SIDE OF BOB DYLAN」では”愛”について歌うようになり、プロテスト・ソングは1曲も納められませんでした。それはフォーク・ファンにとって商業主義であり、裏切りに映りました。しかしディランの裏切りはまだまだ序の口でした。
64年と言えば、ビートルズが初渡米し、全米中に旋風を巻き起こした年です。ボブ・ディランはそれを苦々しく思ったでしょうか?いえいえ、ディランはそこに音楽の未来を確信したようです。時来たれりとばかりに自らも電化へと舵を切ります。
そしていよいよ65年。この年3月にリリースしたのが「BRINGING IT ALL BACK HOME」です。A面1曲目「Subterranean Homesick Blues」は、チャック・ベリーの「Too Much Monkey Business」を下敷きにしてはいるものの、若きディランの感性が爆発した、まさに新しき時代の幕開けを告げる名曲です。疾走するスピード感と溢れ出すような言葉の連射は、まるでパンクのようであり、ラップの元祖とも言えるでしょう。また、投げやりに吐き出されるようでいて卓抜したリズム感に支えられたディランの歌声は、バンドというリズムを得たことでそれまでとは別次元の魅力を放っています。これは当時、その革新性こそ理解されなかったかもしれませんが、それ故に相当に衝撃的だったはず。レコードに針を落とした瞬間にこのインパクトですからね。そしてA面は「Maggie's Farm」、「Outlaw Blues」、「Bob Dylan's 115th Dream」など強力な電化バンド・サウンドが続きます。ただこのアルバムは、A面でエレクトリックに化けながらも、B面は従来のアコギ弾き語り曲が並ぶという、折衷的な作品でした。さすがのディランもあまりに急激な変化は避けたのでしょうか?
で、結局どっちなの?という疑問に答えを突きつけたのが、同年夏に出演したニューポート・フォーク・フェスティヴァルでした。これが電化ディランの初ライヴ。ポール・バターフィールド・ブルース・バンドの面々を従え大音量で咬ました有名なステージですね。エレキギターを持ったディランの”裏切り”に対し、野次やブーイングの嵐だったというのが定説でしたが、それはバンドの音が大き過ぎてディランの歌が聴こえなかったこと、演奏時間が予定より短かったことなど、必ずしも電化に対して否定的なものではなかったという説もあります。
そしていよいよ同年8月、完全電化アルバム「HIGHWAY '61 REVISITED」をリリース。9月にはシングル「Like a Rolling Stone」がキャッシュボックスの1位にランクされます。これがディランにとって初の全米1位でした。この時期のボブ・ディランのサウンドは”フォーク・ロック”と呼ばれています。フォーク・ロックと言えば、同時期にザ・バーズがボブ・ディランのアコースティック曲「Mr. Tambourine Man」をロック化して大ヒットさせます。しかし面白いことに、同じフォーク・ロックでも、ザ・バーズによるディランの電化と、ディラン自身の電化、両者のサウンドはまるで違います。ザ・バーズの12弦ギターをフィーチャーしたソフトなエレクトリック・サウンドは、フォーク・ロックのイメージそのものですが、ボブ・ディラン自身の電化はもっとブルースに近い。そしてカントリーからの影響も強い。特に「Like a Rolling Stone」などに顕著な、”エッジー”なのに”ルーズ”なノリは、ザ・ローリング・ストーンズが70年代初頭に完成させる、「Brown Sugar」や「Tumbling Dice」などに代表される″ストーンズ流ロックン・ロール″の先取りと言えなくもないでしょうか?ストーンズはそれまでに培った黒人グルーヴ解釈に、グラム・パーソンズ達を介してカントリー・フィーリングを注入することでストーンズ流の新たなロックン・ロールを生み出しました。一方、ボブ・ディランはデビュー時から、白人のフォーク/カントリーと黒人のブルースをリズム面も含めてミックスした演奏スタイルを模索していたはずで、電化にあたってその発展系を志したであろうことは言うに及ばずでしょう。そう考えれば、初めての電化ライブに白人ブルースバンドであるポール・バターフィールド・ブルース・バンドを指名したのも頷けるのです。とにかく、65年当時、「Like a Rolling Stone」の持つ電化ディランのグルーヴ感は、そうとう新しく、得体の知れないものだったのではないでしょうか? 案外、ストーンズは自分達のロックンロールを追求するにあたり、この頃のディランを参考にしていたかもしれない、なんて想像してみたり。数十年後に彼らが「Like a Rolling Stone」をカヴァーするのも、ただ単に曲名にバンド名が入っているからではないと思いますし。
さて、ボブ・ディランはこの年、8月の終わりからザ・ホークス(後のザ・バンド)を従えたツアーに出ます。前半はアコースティック・ギター弾き語り、後半はエレクトリック・バンド・セットという2部構成でした。これはまだディランがフォークを捨てきれていなかったのか?それともフォーク・ファンに対する配慮なのか? 理由は色々あるかもしれません。でもフォークとエレクトリックの対比が、結果として良くも悪くも電化ディランを際立たせたことは間違いないでしょう。案外、ボブ・ディランはそこも意識的だったのかもしれません。電化ディランのお披露目に、敢えてフォーク・フェスティヴァルを選んだのも、いかにもって感じがしますしね。この時、ロックの大音量時代はまだ訪れていません。クリームもジミ・ヘンドリクスもデビューしてませんからね。そもそもロックそのものが生まれたばかり。しかしディランは「ロック=大音量がもたらすカタルシス」という側面に気付いていたのかもしれません。翌年まで続いたこのツアーで有名な「ユダ!」という野次を受ける事件が起ります。それに対しバンド・メンバーへ「プレイ・イット・ファッキン・ラウド!」と言って「Like a Rolling Stone」を始めるディランはロックそのものです。また、ディランのふてぶてしく己を貫く姿は、反抗の音楽であるロックの道に、巨大なインパクトを与えたことでしょう。
最後に、この時代のボブ・ディランが如何に偉大だったかを探るため、同時代の名作群をいくつか紹介します。(最後にとか言っといて、ここからがさらに長いんですけど…。すいません。)
THE BEATLES / HELP!
THE BEATLES / RUBBER SOUL
ボブ・ディランの「HIGHWAY '61 REVISITED」と同じ8月にリリースされたビートルズの5作目「HELP!」。この時ビートルズはまだまだアイドル・グループであり、音楽的にもビート・バンド、ビート・ポップスの域を出ていない印象。一説では、64年初めのパリ公演の際にポールがDJからディランの「THE FREEWHEELIN' BOB DYLAN」を手に入れたとか。とにかくディランを知ったポールとジョンは、作詞面で大いに刺激され、徐々に内省的でアーティスティックな作詞を志すようになります。特にジョンはディランに入れ込むようになり、このアルバム「HELP!」辺りからその影響が見え隠れしてきます。軽快な曲調と裏腹な心の叫びを匠な言葉でリズムに乗せる表題曲「Help!」や、彼流のフォーク・ロックと言える「You've Got to Hide Your Love Away」あたりに、ディランからの影響が特に顕著。ちなみにキャッシュボックスでは、シングル「Help!」が8月終わりから9月11日の週まで1位を独走し、その翌週にディランの「Like a Rolling Stone」が1位を記録しています。
そして同年12月にリリースされた「RUBBER SOUL」。いよいよビートルズがアイドルから大人のグループへ脱皮します。明らかにこれまでのヒット曲量産指向から、アーティストとしての表現、創造にシフトしています。その変化のきっかけとして作詞面でのディランからの影響は先に述べましたが、それは作詞だけではなく、アーティストとしての意識の変化を促したのではないでしょうか。全体を貫く内省的でどこか屈折したトーンは、それまでのポップスを、アートなロックへと進化させています。そしてもう一つ、ディランはビートルズに魔力をもたらしています。それはおそらく64年のビートルズによる米ツアーの時。ディランはビートルズの泊まるホテルを訪れ、共にひと時を過ごしたそう。その時、ビートルズはディランからマリファナを教わったとか。ドラッグの影響が楽曲に現れるのは次作「REVOLVER」からですが、この「RUBBER SOUL」でのシタールをはじめとした多彩な楽器使いや、テープ速度の変更、エフェクト使用などにサイケデリックの萌芽を感じたり。
THE ROLLING STONES / THE ROLLING STONES NO.2
THE ROLLING STONES / OUT OF OUR HEADS
65年1月に2nd作「THE ROLLING STONES NO.2」をリリースしたローリング・ストーンズは、まだ黒人ブルースやR&Bを如何に自分流に料理するかに邁進しつつ、ビートルズを追いかけている、そんな印象。そして7月に「(I Can't Get No) Satisfaction」が全米1位となる大ヒット。アメリカでも一躍トップ・バンドとなり、名実共にビートルズのライヴァルへと登り詰めます。しかしこの「(I Can't Get No) Satisfaction」の直後にリリースされた3rd作「OUT OF OUR HEADS」もほとんどカヴァー曲で構成され、未だブリティッシュ・ビート・バンドな佇まい。彼らが全曲オリジナル曲によるアルバムを作るのは翌66年の「AFTERMATH」から。もちろん、まだまだストーンズ流ロックン・ロールに目覚める前の時代です。
THE WHO / MY GENERATION
英国3大バンドの一角、ザ・フーですが、65年12月にようやくデビュー作をリリースしています。シングル「My Generation」は、ストーンズの 「(I Can't Get No) Satisfaction」と並び、新しき時代の到来を告げるロック・アンセムですね。またザ・フーで特筆すべきは、この65年頃、早くもピート・タウンゼントがマーシャル社に大型アンプ、大型キャビネットの製作を依頼していること。後にライヴ・バンドとして一時代を築く、まるで大音量の申し子のようなザ・フーですが、デビューの頃から、既にそれを意識していたことには驚きます。
THE BYRDS / MR. TAMBOURINE MAN
そもそも50年代のロックンロール・ブーム以降、ブリティッシュ・インヴェイジョンまでアメリカにはロック系のムーヴメントは存在していませんでした。つまり、この65年に生まれたフォーク・ロックこそ、初めてのアメリカ産ロック・ムーヴメントになる訳です。しかもそれはボブ・ディランの電化に右へ習えのように湧き起こった訳ですから、ディランの影響力恐るべしです。そしてディランと共にフォーク・ロック誕生に貢献したのがザ・バーズです。中心人物のロジャー・マッギンやデヴィッド・クロスビーは、もともとフォーク・シーンで活動しいたものの、ビートルズに影響されてロック・バンドを組んだそうです。そしてデビュー曲はボブ・ディランのカヴァー「Mr. Tambourine Man」でした。65年4月にリリースされたこのシングルが全米1位の大ヒットとなります。続いてソニー&シェール、バリー・マクガイア、サイモン&ガーファンクル、タートルズ、ラヴィン・スプーンフル、ママス&パパスなど、フォーク・ロック系のヒットが続々と誕生します。チャート的にはザ・バーズによる「Mr. Tambourine Man」が口火を切ったフォーク・ロック。それがボブ・ディランのカヴァーであるという点も象徴的。ちなみに、「Mr. Tambourine Man」を収録したザ・バーズの1st作「MR. TAMBOURINE MAN」は、全11曲中4曲がディランのカヴァーでした。
そして65年は、グレイトフル・デッド、ドアーズ、ジェファーソン・エアプレインが結成され、ビル・グレアムがフィルモア・ボールルーム(後のフィルモア・オーディトリアム)で初めてコンサートを開いた年であり、まさに西海岸のロック・シーンが産声を上げた年でもあります。そして翌年以降、本格的にアメリカ産・ロックが台頭してきます。
また、黒人音楽はと言いますと、まさにモータウン全盛で、スプリームス「Stop! In the Name of Love」、フォートップス「I Can't Help Myself (Sugar Pie Honey Bunch)」、テンプテイションズ「My Girl」など、ヒットを連発していました。一方、それに対抗するようにスタックスからオーティス・レディングがアルバム「OTIS BLUE」でサザン・ソウルの咆哮を上げ、ジェイムズ・ブラウンが「Papa's Got A Brand New Bag」でファンクの誕生を告げています。
次回、第3回は「66年のボブ・ディラン」。いつ書くかはわかりません…。
第1回はこちら↓
63年のボブ・ディラン 〜ニュー・ヒーロー〜