金曜日、赤坂で『幽閉者テロリスト』の本多章一君の取材。本多君はいかにもナチュラルボーンな若者で、なかなか核心に触れた発言は聞かせてくれなかったのだけれども、それでも何とかだらだらっと撮影を含めて1時間ほど話を伺う。まだ自分でも才能(可能性)を持て余している感じはするな~。これからどう変わっていくのか、それが「期待の新人」というキャッチフレーズになるのだろうが。
映画班から借りた『映画芸術417』の巻頭座談会で某映画批評家が、「メジャーは悪でインディーズは善、という立場で原稿を書いていた先輩がたがたくさんいたけど、いまはどちらに新しい価値があるのか見えにくくなっている」だとか「メジャーは悪でインディーズが善、という言い方が崩壊したのはいいことだとしても」だの「インディーズにも悪いものはあるし。メジャーにもいいものがある」だの、何だか頓珍漢なことを言っているのが気になった。おいおい、いつからメジャー、インディーという言葉が質や内容を指す言葉になったんだ? ましてや新しいだの古いだの、善悪などという安易な言葉で語られるものでもないだろう。
すべての基本にインディーはある。それは身の置き所以外の何物でもない。それはすべての人が、表現したいという欲求の置き所と言ってもいい。例えばメジャーに収まりきらなくなってしまったベテランミュージシャンたちが自らレーベルを立ち上げ、インディーに還ってくるのはそういうことだろう。
マイジャーって造語が生まれたのは、もう20年以上前の話だぜ。
すべての基本にインディーはある。それは身の置き所以外の何物でもない。それはすべての人が、表現したいという欲求の置き所と言ってもいい。例えばメジャーに収まりきらなくなってしまったベテランミュージシャンたちが自らレーベルを立ち上げ、インディーに還ってくるのはそういうことだろう。
マイジャーって造語が生まれたのは、もう20年以上前の話だぜ。