徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

戦争ごっこはなぜ嫌われるのか/安倍政権NO!☆首相官邸包囲7.24

2015-07-26 15:08:40 | News

金曜日は安倍政権NO!☆首相官邸包囲に参加。ネット上でも当日の過剰警備や、「賛成派」としてメディアでも紹介され、在特会やヘイトデモ関係者との関係も濃い政治団体「頑張れ日本」の妨害行為が問題になっている。
それはまた稿を改めるとして、今話題になっているのは官邸前・国会前の現場での極左・ヘサヨ排除である。
簡単に言ってしまえば、まだこの国の民主主義は「手段としての殺人を容認する集団」を容認しない。

最近再び話題の酒鬼薔薇事件が起きた頃、子供たちの「なぜ人を殺してはいけないか」という質問に大人はどう答えるのかがちょっとしたメディアのテーマになっていたことがある。
深遠な回答から感情的な回答まで様々な回答が紹介されていた記憶がある。勿論殺人そのものが人間関係の破綻ではあるのだけれども、その後、殺人者が味わうのは人間関係の集積地である社会からの排除である。最終的に殺人という形でしか人間関係を築けなかった人間に対して社会と個人は容易に関係を結ばない。いざとなったら殺しちゃうような人間では危なっかしくて関係を持とうなど、なかなか思わないだろう。
殺人に限らず、トラブルの多くはイージーな関係性の中で起こる。だからといって田舎の濃厚な関係性の中でも陰惨な事件は起こるのだから、「イージー」というのは関係の距離や重さを測っているのではなく強さを測っている。要するに簡単に言ってしまえば時間や場所に依らない信頼である。
この4年間、路上で多くの信頼に足る人たちに出会ってきた。オレが音楽家だったらDJ TASAKAのようにCDを作りたいと思うだろうし、カメラマンならろでぃのような写真を撮りたいと思うし、bc君や斧君のようなデザイナーならプラカードやTシャツを作っただろう。彼らは「強い関係性」の中から自分たちの表現を生み出している。そしてその表現がまた今の路上の運動で共有されている。まさにコール&レスポンスである。

話を戻す。
同じ場所に存在しているからといって、また同じ時間を共有しているからといって、それだけが「関係」を示すものではない。場合によっては殺人も厭わないと公言する(また公言するのが実に頭が悪いのだが)、中核派及びヘサヨを含むそのシンパが路上の運動の場から排除されるのは当然のことだ。関係の破綻を殺人という形で実行する、しかねない、そのことを否定しない連中とどうやって関係を持てというのだ。いくら抗議しても官邸前、国会前周辺でビラ配りを止めず、不必要なほど巨大な団体旗を掲げで運動にただ乗りしようとする極左はもはやストーカーであり、はっきりと妨害者になっている。
ストーカーに対してしなければならないことは、自分たちとは「関係がない関係」である事実と意志をきっちり突きつけることである。つまり排除しかない。

個人の諍いならともかく、オレたちの行動に勝ち負けという価値観は相応しくない。なぜなら「問題」はひとつの答えや行動で解消するわけもなく、おそらく生きている限りつきまとい続けるのだから。
解決とは勝ち負けのことではない。妄執のように目先の勝ち負けにこだわるのはネトウヨの習い性だが、そんなものに乗る必要はない。

現政権との戦いは確かに「倒すか倒されるか」なのかもしれないが、こちらはそう簡単に倒されるわけにはいかない。なぜならそれでもオレたちは生きていかなければならないからだ。
中核派の女がテレビで言うように「倒すか倒されるか」ではなく、「倒したり倒されたり」する戦いがずっと続くのだ。
すっと続く以上、無駄な乾坤一擲や勇ましいだけの決戦を叫ぶ輩は、やっぱりお引き取り願うしかない。

安倍政権が「手段としての殺人」を容認しようとしている今、イージーな戦争ごっこはお断りだ。