前回に続いて話題は「場所」である。
シングルイシューという手法をいまだに蛇蝎のごとく嫌う人たちがいる。それは問題を極めて単純化させ、そこに潜む諸々の問題を糊塗する、もしくは無視する排除の論理だというわけだ。
反原発デモでは原発事故そのものを中心に据えて文字通り思想的な立場を越えた連帯が実現した。手の付けようのない過酷事故を目前にして思想的対立などはほとんど意味がない。不幸なことに国家的危機が「立場」を越えさせ、シングルイシューを実現させたわけだ。そして両極が“同じ声”を上げれば、そこに普通の人たちが集う「場所」ができる。
シングルイシュー=単純化というのは問題をより鮮明化させる、徹底した是々非々的な態度の取り方だったといえる。
そんな「場所」だからこそ人が集まったのだ。2012年の夏、数十万人の日本人が官邸前、国会前、霞ヶ関周辺に集まり、そこは「普通の場所」になった。そして共感し、共有できる言葉として「原発反対(やめろ/停めろ)」「再稼動反対」という研ぎ澄まされたフレーズ(コール)はシングルイシューの象徴になった。
単純化を批判する人たちには梯子を外されたような気分になったのだろうが、実際にはすべてのマルチなテーマはシングルイシューに収斂されているのだ。シングルイシューは巨大な入り口であり、諸々の問題のその奥に準備されている。
問題はとんでもなく“単純”で、でもやはり“単純じゃない”。だからこそ問題意識と当事者性を喚起させるために、そして自縄自縛に陥らないために、問題の入り口をどこに求めるのか、という話である。
「普通」という言葉と同じようにクローズアップされたのは「当事者(性)」という言葉だった。
勿論3.11以前の運動も参加者の当事者性に訴えかけるものだっただろう。しかしそれも諸々の問題を「反天皇制」「反体制」といったフィクショナルな掛け声で収斂させていく方法では当事者性を喚起させるのは難しい。一体何と、誰と戦っているのか見えない上に、無用な「敵」まで増やしてしまう。手っ取り早く目に見え、身近な<権力>である警察や機動隊にひたすら楯突き、彼らと揉み合うことに血道を上げている人たちも多く見てきた。
そして、それこそが問題の本質を見誤る予定調和でしかなかった。
シンプルに、そしてダイレクトに問題に対峙する。これが3.11以降のアクションの基調だったはずだ。
今年の初め、全国でヘイトデモを繰り返し、ヘイトスピーチを撒き散らし扇動する在特会会長の桜井(高田)誠に対してTwitterで声を上げたKぽぺん(Kポップファン)の行動もまさしくこれだ。
2月以降、彼らの“声”を受けた東京ではレイシストをしばき隊を中心としたカウンター行動が猛烈に活発化し始めた。
比較的「新しい問題」である原発とは違い、レイシズムは国際的にも、国内的にも一応の合意は済んでいる問題ではある。
「差別はいけない」
「いじめはやめよう」
まさしくシングルイシューである。しかしそれも表面上は、ではある。顕在化したレイシズムに直接反対する声はまだ小さい。うつむいていれば、横を向いていれば、そして目を瞑っていればやり過ごせる他人事の問題でもあるからだ。
カウンター行動の中から生まれ、今回の東京大行進のパレードでもコールされる「仲良くしようぜ」というフレーズは、反原発運動における「再稼動反対」というフレーズほどには、シングルイシューの象徴になり得ないでいる。
誰が誰と仲良くするのか? そもそも仲良くする必要があるのか? おまえは誰なのか? 日本人か、在日か? 反日か?
「当事者(性)」の在り処が問われていた。
(まだ続く)
差別撤廃 東京大行進 The March on Tokyo for Freedom
日時:9月22日(日)12時半集合/13時出発
集合:新宿中央公園 水の広場
<数年前から、東京の新大久保や大坂の鶴橋など、全国各地でレイシスト団体によるヘイトスピーチ・デモや街宣活動が繰り返し行われてきました。私たちはこのような卑劣なデモに対して、2013年2月から様々な形の抗議活動を行なってきました。そして、7月14日に大阪で行われた「OSAKA AGAINST RACISM 仲よくしようぜパレード」への連帯をベースにしながら、人種、国籍、ジェンダーその他の偏見の範疇に基づくすべての形態の差別に反対するデモを9月22日に行ないます。>
(People's Front of Anti Racism/差別撤廃 東京大行進 The March on Tokyo for Freedom公式サイト)
シングルイシューという手法をいまだに蛇蝎のごとく嫌う人たちがいる。それは問題を極めて単純化させ、そこに潜む諸々の問題を糊塗する、もしくは無視する排除の論理だというわけだ。
反原発デモでは原発事故そのものを中心に据えて文字通り思想的な立場を越えた連帯が実現した。手の付けようのない過酷事故を目前にして思想的対立などはほとんど意味がない。不幸なことに国家的危機が「立場」を越えさせ、シングルイシューを実現させたわけだ。そして両極が“同じ声”を上げれば、そこに普通の人たちが集う「場所」ができる。
シングルイシュー=単純化というのは問題をより鮮明化させる、徹底した是々非々的な態度の取り方だったといえる。
そんな「場所」だからこそ人が集まったのだ。2012年の夏、数十万人の日本人が官邸前、国会前、霞ヶ関周辺に集まり、そこは「普通の場所」になった。そして共感し、共有できる言葉として「原発反対(やめろ/停めろ)」「再稼動反対」という研ぎ澄まされたフレーズ(コール)はシングルイシューの象徴になった。
単純化を批判する人たちには梯子を外されたような気分になったのだろうが、実際にはすべてのマルチなテーマはシングルイシューに収斂されているのだ。シングルイシューは巨大な入り口であり、諸々の問題のその奥に準備されている。
問題はとんでもなく“単純”で、でもやはり“単純じゃない”。だからこそ問題意識と当事者性を喚起させるために、そして自縄自縛に陥らないために、問題の入り口をどこに求めるのか、という話である。
「普通」という言葉と同じようにクローズアップされたのは「当事者(性)」という言葉だった。
勿論3.11以前の運動も参加者の当事者性に訴えかけるものだっただろう。しかしそれも諸々の問題を「反天皇制」「反体制」といったフィクショナルな掛け声で収斂させていく方法では当事者性を喚起させるのは難しい。一体何と、誰と戦っているのか見えない上に、無用な「敵」まで増やしてしまう。手っ取り早く目に見え、身近な<権力>である警察や機動隊にひたすら楯突き、彼らと揉み合うことに血道を上げている人たちも多く見てきた。
そして、それこそが問題の本質を見誤る予定調和でしかなかった。
シンプルに、そしてダイレクトに問題に対峙する。これが3.11以降のアクションの基調だったはずだ。
今年の初め、全国でヘイトデモを繰り返し、ヘイトスピーチを撒き散らし扇動する在特会会長の桜井(高田)誠に対してTwitterで声を上げたKぽぺん(Kポップファン)の行動もまさしくこれだ。
2月以降、彼らの“声”を受けた東京ではレイシストをしばき隊を中心としたカウンター行動が猛烈に活発化し始めた。
比較的「新しい問題」である原発とは違い、レイシズムは国際的にも、国内的にも一応の合意は済んでいる問題ではある。
「差別はいけない」
「いじめはやめよう」
まさしくシングルイシューである。しかしそれも表面上は、ではある。顕在化したレイシズムに直接反対する声はまだ小さい。うつむいていれば、横を向いていれば、そして目を瞑っていればやり過ごせる他人事の問題でもあるからだ。
カウンター行動の中から生まれ、今回の東京大行進のパレードでもコールされる「仲良くしようぜ」というフレーズは、反原発運動における「再稼動反対」というフレーズほどには、シングルイシューの象徴になり得ないでいる。
誰が誰と仲良くするのか? そもそも仲良くする必要があるのか? おまえは誰なのか? 日本人か、在日か? 反日か?
「当事者(性)」の在り処が問われていた。
(まだ続く)
差別撤廃 東京大行進 The March on Tokyo for Freedom
日時:9月22日(日)12時半集合/13時出発
集合:新宿中央公園 水の広場
<数年前から、東京の新大久保や大坂の鶴橋など、全国各地でレイシスト団体によるヘイトスピーチ・デモや街宣活動が繰り返し行われてきました。私たちはこのような卑劣なデモに対して、2013年2月から様々な形の抗議活動を行なってきました。そして、7月14日に大阪で行われた「OSAKA AGAINST RACISM 仲よくしようぜパレード」への連帯をベースにしながら、人種、国籍、ジェンダーその他の偏見の範疇に基づくすべての形態の差別に反対するデモを9月22日に行ないます。>
(People's Front of Anti Racism/差別撤廃 東京大行進 The March on Tokyo for Freedom公式サイト)
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