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昨日は官邸前抗議の前に六本木へ行った。オオタファインアーツで行われているアキラ・ザ・ハスラー「ふつうにくらす」。
<赤い糸>と題された、石粉粘土とアクリルで作られた人形が並ぶ。それぞれの人形の手のついている「赤」は糸のようであり、手の先から流れた血のようでもある。人形の「糸」はつながっているわけではなく、その糸の先を小鳥がついばむ。
決して突飛な抽象でもなく、アキラ・ザ・ハスラーが3.11以降に見たもの、感じたものをありのままに表現していることがわかる。どれもこれも具体的な「ふつう(リアリティ)」である。
会場では去年の秋、水戸の公園で100個の白い風船(!)を配りながら歩くアキラ・ザ・ハスラーのビデオ映像も流される。そのビデオにはこんな言葉が添えられている。
「僕らは希望を語るための道具を探している」
プラカードもTシャツもトラメガも「白い風船」も、そして性器までもが、3.11以降の希望を語るための「道具」だったのかもしれない。道具は決して誰かの占有物ではなく、誰もが使えるからものでなければならない。
その夜、いつものように官邸前抗議に出かけた。官邸前の最後列付近、コールをしようとしている人たちの真後ろでアンプを使って歌い続けているフォークソングのグループとちょっと口論になってしまった(おばさん、申し訳ない)。勿論共有できる目的さえあれば、どんな「道具」を使っても、どんな「表現」があっても構わない。
彼らはギターを使う。オレらは声とクラップを使う。それぞれの道具と表現で「希望(共存していく方法)を探している」のだ。
一方で路上や公園で生まれた熱はそれぞれが持ち帰って、それぞれが表現しなくちゃいけない。自己表現を必要とされない集団の抗議行動の熱や思いは、集団を離れて個人に戻ったときに、どこかで、何らかの形でやっぱり自己表現されるべきなのだと思う(「現場」で自己表現するのは正直勘弁して欲しいけれども、それぞれの、個人の「現場」で自己表現して欲しいと思う)。それはアーティストだけの仕事ではなくて、ひとりひとりの表現衝動だ。オレは文章、チョーさんはアートという「道具」でそれを表現する。
3.11に起こったことは文字通り、問答無用の無慈悲なリアル(事実)だけれども、オレは3.11以降のリアリティ(表現)をもっと見て、聴いて、感じていきたいと思う。それが「3.11以降を、ふつうにくらす」ってことだよ、たぶん。
アキラ・ザ・ハスラー「ふつうにくらす」、今日までです。
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