徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

「どっちもどっち」の意味/差別撤廃 東京大行進に向けて(4)

2013-09-20 01:25:59 | News
差別はなぜいけないのか?またオレはなぜカウンターするのか?
差別の在り処を巡ってカウンター諸氏に言いがかりをつけてくるような連中が後を絶たない。



一連の新大久保(鶴橋)でのカウンター行動とヘイトスピーチの関係についてはこれ以上シンプルでわかりやすい図解はない。日本人を中心にしたカウンターとレイシストというマジョリティの間で路上で交わされるのは<罵倒の応酬>であり、レイシストによるマイノリティ(この場合は在日、東北アジア出身者)への出自に対する罵倒についてのみ<ヘイトスピーチ>と定義されている。ヘイトスピーチとは単に「言葉の汚さ」を意味するものではなく、マジョリティからマイノリティへ向けられた差別を扇動し、助長する<表現>であることは明らかだ。議論の余地はほとんどないといっていい。
となると噛み付きやすいのは、本来ヘイトスピーチとはまったく関係ないはずの<罵倒の応酬>だ。
これを本来のヘイトスピーチの話題から棚上げし、「どっちもどっち」と言うのは簡単だ。レイシストをしばき隊を始めとするカウンター勢力は、まさに「どっちもどっち」の状況を作り出し、レイシストたちのヘイト(憎悪)の向かう先をマイノリティではなく、マジョリティに引き戻す(逸らす)ことが目的であっただろうし、実際その意味でカウンターは着実に成功している(そしてどこまでいっても「どっちもどっち」でしかいられない警備警察を動かし、報道を喚起する意図もあっただろう)。
カウンターにとっては「どっちもどっち」上等、というわけだ。
しかし「どっちもどっち」という言葉は、レイシストとカウンターの攻防を高みの見物で評している言葉ではなく、実はそういうしかない本人の無定見なスタンスを図らずも表明しているに過ぎない。

差別はいけないという。
差別はなくさなければいけないという。
そしてカウンターはそのためにある。それは確かだろう。
「あれはいじめだ」
「いじめは止めなくちゃいけない」
まさにその通りである。
しかし一番大事なのは、「醜悪な事態」が目の前で起こっているという事実で、カウンターの動機は後付けと言っていい。
目の前で起こっている状況に対して個人がいかに判断し、行動するか。それは実際のところ、論理を越えた行動なのだ。リーダーや指導者がいるわけではない。個人で参加しているカウンターたちは、車座集会をして行動方針を決めているわけではないのだ。
オレたちは自分で判断し、行動する。
レイシストをしばき隊の野間さんは「どんな手段を使ってでもレイシストを止める(By Any Means Necessary)」と宣言している。それは、まず「目の前で起こっている醜悪な事態を何が何でも止めさせる」ということである。
醜悪な事態、それも「目の前」で起こっている状況に対して人が取るべき態度というのは「どっちもどっち」ではなく、「どちらか」でしかない。
そして「どちらか」のダイレクトな行動だけが状況を食い止め続けるのは紛れのない事実なのだと思う。
(当日までまだ続く)

差別撤廃 東京大行進 The March on Tokyo for Freedom
日時:9月22日(日)12時半集合/13時出発
集合:新宿中央公園 水の広場

<数年前から、東京の新大久保や大坂の鶴橋など、全国各地でレイシスト団体によるヘイトスピーチ・デモや街宣活動が繰り返し行われてきました。私たちはこのような卑劣なデモに対して、2013年2月から様々な形の抗議活動を行なってきました。そして、7月14日に大阪で行われた「OSAKA AGAINST RACISM 仲よくしようぜパレード」への連帯をベースにしながら、人種、国籍、ジェンダーその他の偏見の範疇に基づくすべての形態の差別に反対するデモを9月22日に行ないます。>
People's Front of Anti Racism/差別撤廃 東京大行進 The March on Tokyo for Freedom公式サイト

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