一昨日報道された安倍首相のデパート訪問は、当初の予定だった「私邸近く」の東急本店から場所を変え、本人が裏口から闖入するという展開になった。変更の理由は明らかにされていないものの、アルタ裏抗議と共に、一昨日から昨日にかけて出回った「デパート包囲」のタグはそれなりの効果があったのだろう。
ここのところ、反レイシズムカウンターの間で「当事者」の話題が蒸し返されてきたようなのだけれども、改めてこのイシューも新しい局面に入ったのだろうと実感している。
振り返れば3.11以降の一連の行動は当事者性の発露以外の何物でもない。フクシマ、原発立地住民、被差別マイノリティという、紛う事なき「当事者」の存在を意識し、時に「代弁者」の存在に悩まされながら、行動する一人ひとりを突き動かす当事者性がここまでの行動を支えてきた。
「当事者なんて人それぞれ」みたいなツイートを見かけたけれども、やはりその通りだろう。
関東のカウンターの多くは「当事者」と共存しながら、自らの当事者性に突き動かされることに迷いがない(ように見える)。それは、参加者のパイ(数)の大きさもさることながら、前段階としての“3.11”をどう受け取り、リアクションしてきたのかが大きいのではないか。それは理不尽な、不合理な、そしてアンフェアな、ある“状況”の中に自分自身の姿を見出すことができるかどうか程度のことに過ぎない。
それは「当事者」に思いを馳せ、アイデンティティポリティクスに学ぶというよりも、3.11以降の一連の行動から嗅ぎ取り、感じ取ってきたものだ。これはちょっとした想像力と行動力の問題だ。
2013年に加熱したレイシストへのカウンター行動は去年12月を境に本格的なAntifaへ移行した。
勿論状況を飛び越えていく想像力と行動力は、それぞれのイシューを過去のものにするわけではなく、思考を重層化させ、拡がりを持たせる。
反原発からレイシズム、そして反ファシズムへ、コアで行動する人たちの状況に対する当事者性は疑いようがない。
状況とは何か。そして当事者性とは何か。それは、そこに、共に生きている実感という他ない。
この3年間の行動は衝動的に見えながら(衝動は極めてプリミティブな当事者性の発露であるのだが)、まったく論理的で、必然的だった。遮二無二突っ走っているように見えて、ツイートやネット上の書き込みの“小さな声”に呼応し、互いに確認しながら、大きなうねりを作ってきたと思うのだ。
いよいよ“ネトウヨの親玉”と対峙することで、オレたちは紛うことなき当事者になったわけだ。
そして、それぞれのイシューはある局面から深化し、特定の“場所”での抗議行動やロビイングが始まる。
それが反原発運動における金曜官邸前抗議であり、差別反対運動における大阪での仲良くしようぜパレード、東京での差別撤廃東京大行進以降に本格化したデモや公官庁、自治体、企業への活発なロビイングだろう(個別のレイシストに対する“法律しばき”も含まれる)。
多少乱暴に見えても、まず状況を突破することが性に合っている人がいれば、その突破した状況をオーガナイズし、取り組みを深化させる(方が得意な)人もいるだろう。その時点において、アイデンティティポリティクスが改めて見直される。
見直されるのだけれども、それと“突破する行動”とはほとんど関係がない。
というか、やはり、関係がないと言い切ってしまう方がいいだろうと思う。
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