連載「石巻から/浪江から」の2回目で、今回は、福島県浪江町における対談。同じ対談が、もっと要約された形で「未来からの記憶 被災地での対話PARTⅡ福島・浪江」と題して、河北新報12月8日付に掲載されている。
おふたりは、この日対談前に、浪江町の震災遺構・請戸小学校を訪問した。
【不思議な化石】
「和合 …請戸は、…原子力発電所の爆発からすぐに立ち入り禁止となったために、当時津波にさらわれて自力で這い上がってきた方々が救助されずに亡くなっていくという、悲劇のあった場所でもあります。」(44ページ)
悲劇。何とも衝撃的な事実である。
福島県浜通りは、ここ気仙沼と違って、津波のみでない二重苦に襲われた場所である。岸辺に自力で到達しながら誰にも発見されず、その場に取り残され、命を失った人々がいた。重大な自然災害であるのみならず、宮城、岩手に比べて、人災の側面があからさまに大きい。
「和合 先週は、飯館村で酪農を営まれている、活動家の長谷川健一さんが亡くなり、…昨年暮れにお会いした折に、…「和合さん、十年間怒り続けてきたけど、おれはもう疲れた。これからは、静かにいろんなことを考え続けたい。でも、怒り続けることを、忘れてはいけない。」」(45ページ)
長谷川健一さんの怒り、もう疲れた、ということば。十年間二重苦と戦い続けた人間の現在である。
「吉増 …今日は、大震災の傷跡というよりも、不思議な化石が残っているような、……”化石“というこの喩をもね、”おれはもう疲れた……“といういい方に、きっと変えてもいいのね、その年月を経た、震災以降の請戸小学校を体験しました。」(45ページ)
「吉増 震災直後の『詩の礫』の心読をしますとね、ほとんど全身で詩の鬼のようになって言葉を白熱させた詩篇たちが、十年経って途方もない力を出してきているのがわかりはじめるのね。」(45ページ)
吉増氏は、十年を経た震災の経験、記憶を不思議な化石と喩える。和合氏の詩編も、十年を経て化石化したというのだろう。化石化することで途方もない力を放ち始めた。これは、時を経て、自然にそうなったということだろうか。そうではないだろう。詩人のちからが、経験を、記憶を、言葉を変成した、不思議な化石へと生成変化させた。念のため言っておけば、この化石は「柔軟性を失った時代遅れの役立たず」という含意ではないはずだ。美しくさえある揺るぎのない表現体となったということだろう。詩人と呼ばれるためには、記憶を、言葉を、十年経って、そういうふうに変成しうるように鍛え上げてなくてはならない、詩人には、そういう義務がある、そういう存在であらねばならないと宣告している、ということなのではないか。私は,そう受け止める。吉増氏は,和合氏の詩が、まさしくそういう不思議な化石たり得ており、和合氏がそういう力量を持った詩人であると言挙げしているわけである。
長谷川氏は、詩を書く詩人ではないが、浜通りで生きてきたその生き方が、「不思議な化石」を生成させるものであった。
しかし、一方で、「詩は化石である」という含意は、受け止めておかざるを得ないのかもしれない。
【浜通りの異物、海の擬人化】
吉増氏が,福島の浜通りは,他とは違う場所だと語るなかで、気仙沼が登場する。
「吉増 「浜通り」は、福島でも会津や中通りとは違う。…松島や奥松島や気仙沼や陸前高田や大船渡ともまったく違う。しかもここには、福島第一原発が、何とも信じられないような姿をして立っている。その「景色」を、私の心はどうしても認めようとしないのね。…僅かにね、あれが塔であるわけがない、……と聞こえてきます。」(46ページ)
ここに出てくる「塔」は、ランボーの「最も高い塔の歌」の塔か、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』冒頭の海岸の塔か。いずれにしても、原発は,即物的な異物でしかない。この異物の存在が、吉増氏をいらだたせる、ということだろう。
ここでの「しかも」は、私は,一見、時系列が逆転していると思う。壊滅した福島第一原発こそが異物であり、「浜通り」を全く違うものにしている元凶であるに違いない。しかし、現在を過去に投影して見る,見なおすということも,詩人の重要な資質であるに違いない。昭和の歴史の中で、原発が立地せざるを得なかった「浜通り」を,現在から透視する、とでもいうような。
和合氏が、海の擬人化を語り、「海を憎む」、「海を憎むことができない」という言葉を繰り返し聞いてきたという。これは、気仙沼においても同じことである。憎むべき海なのに、海を憎むことができないと,繰り返し語られてきた。
「和合 …ぼくはこれまでいろんな方の激情に駆られている姿を見てきたし、そうした言葉を直接聞いて来たし……、いろんな被災者から「海を憎む」とか、「だけど海を憎むことができない」などという言葉を聞いてきて、人間に対しての感情と風景に対しての感情は違うと思っていながら、実は、誰もが人にたとえて向きあっている、そんな思いもしました。」(47ページ)
【映画『東北おんばのうた』と方言の力、短歌俳句の命運】
対談の前に上映したという記録映画『東北おんばのうた』について、吉増氏が語る。岩手県大船渡市が舞台である。この映画について、現代詩手帖2021年3月号に新井たか子氏が書かれており、このブログでも紹介している。
「吉増 …新井たか子さん、鈴木余位さんがつくられた八十分の映像作品『東北おんばのうた――つなみの浜辺で』…のハイカラ語ではないケセン語。土方巽の言語を聞いたときの驚きにも似た、テンマルなしに淀みなく語り続ける、百歳と九十四歳のおばあちゃんの言語のほとんど無尽蔵の力がはっきり認められたのですね。」(48ページ)
大船渡を含む岩手県気仙地方のことばケセン語、秋田県出身の暗黒舞踏の土方巽、ケセン語といえば山浦玄嗣氏についても語りたくなるが、詳しい解説は省く。おんばとは言うまでもなく、おばあちゃんのことである。地方で語り継がれる方言の力。
吉増氏は、俳句や短歌は、とっくに命運尽きているという。戦後既に滅びており、十年前の震災でとどめを打たれたと。それに対して、和合氏の詩を評価する。
「吉増 啄木も含めて、俳句や短歌になって形のあるものになったときのつまらなさ。…戦後すぐに滅びたはずの俳句や短歌という形式は、十年前の大震災のときに、完全に滅びたのだとわたくしは思います。それに対して、これは自分の発見でもあったのですが、和合亮一の『詩の礫』におけるかたちは、……」(48ページ)
吉増氏は、登米、気仙沼を舞台にしたNHKのテレビドラマ『おかえりモネ』に描かれた気象通報の形式を引き、自らの詩『熱風』を引きながら、
「…海洋気象情報のような、その塊。そのもっとも苛烈な、あらかじめ和合さんの魂のなかで煮えたぎっているようなものが、震災後の爆発的な怒りとともに、ある行数のなかに集結したのが『詩の礫』でした。」(48ページ)
和合氏は、方言と標準語について語りながら、俳句、短歌について、必ずしも否定していないようである。
「和合 …あらためて方言でしかとらえられないものがあるし、反対にとらえることができないものもあるとも。…方言…という二つ目の言語で世界と向き合って暮らしていて、それを一度標準語に置き換えるときには、必ず重しのようなものと向き合っている感じがあります。…石川啄木の「おんば訳」や、あるいは吉増さんの新詩集『Ⅴoix』にも見えないこうした〈重し〉の存在感を感じました。」(49ページ)
「吉増 …しかし、私たちが観た、百歳の今野スミノさん、九十四歳の二浦不二子さん、おそらく、あそこで生涯の言語が流れ出しているんだなあ。あれに比べるとケセン語で歌い直されている啄木の歌も、いかなる啄木の天才性をもってしても、呼吸が止まってしまっている不自由なものでした。」(50ページ)
「和合 語りえない、言葉の外側と向きあっていく部分、それは吉増さんがずっと書かれてきた詩業でもあると思います。私も同じ東北の文化圏にいて、標準語では表せない言葉の外部を方言が語っていることを土地の人間として知悉しながら育ってきたし、標準語とのほつれ目のようなもの無意識に感じながら標準語と方言の二つの言葉のあいだで生きてきたことが詩作へと向かう契機を有形無形にもたらしたということは、少なからず人生のどこかであったのかもしれません。」(54ページ)
標準語と方言という問題群は、気仙沼に住む私も、多かれ少なかれ共有していることは言うまでもない。
ところで、ここでは余計なお話でしかないが、短歌俳句の命運を語る現代詩の側の命運、という問題群もあるのだろう。
【死なない死者】
死んでしまった者と向きあう、というところに、すべての詩の核心はあるのかもしれない。向き合うことで、死者は、いつまでも死なずに詩人の傍らに存在しつづける。
「和合 死なない死とその都度に向き合って、心のなかに一つづつそれを育てている私たちがある。死にきれていない、死なない死者を心に抱えている日々。…どう足掻いても、どうしても抜けきれない影のようなもの。死なない死者と向きあいながら、それでもそこから抜け出して迫っていこうとする姿がこれからの詩歌の創作に必要なのだと思います。」(55ページ)
吉増氏は、溝口健二の『雨月物語』や『山椒大夫』のカメラの動かし方を語る。
「吉増 たとえば溝口健二は、見てはいけないものをそうっと見ないようにする。カメラがそこから離れるっていうことを見せてくれるんですよ。たとえば『雨月物語』のなかで京マチ子が湯浴みをするとき、カメラがすうっと岩陰に隠れる。…「山上他界」という、ほんの少し高いところに登れば、木葉一枚で、そこに他界があるっていうのと同じで、ほんのわずかにスーッとカメラが上がっていく。これを観た西洋の作家たちは甚大なる影響を受けたわけです。
ぼくは津波のことも気になって、溝口健二の『山椒大夫』をもう一回観なおしました。…カメラが来たほうへもう一回すーっと戻っていくのよ。それを、ビクトリア・エリセだったか、驚愕したんだなあ、こういう世界の見方があるんだって。…そーっと別の世界へ動いていく。…歩いていくんだな。…“未知の不確かなほうへ”“潮の香りのほうへ”と歩いていくのよ。」(56ページ)
山上にも、海の向こうにも,他界はある。
すーっとカメラを動かすだけで表現しうるもの、それに匹敵するものを、短い言葉を置くだけで表現すること。
【遊び、面白いこと、奇抜なこと】
吉増氏は,新しい詩集『Ⅴoix』は思いもかけない姿で現出した,と語る。
「吉増 『Ⅴoix』は、こういう姿形で出てくるとは、すなわちこんな書物になるなんて、思いもかけなくて、これを観ていると、「o」と「i」は、ジョイス経由、石狩シーツ経由、石巻経由と分析ができるのね。「石巻」という詩を和合さんと一緒に書きましたが、あとでi市というふうに小さいiに変えていった。」(57ページ)
なぜ小文字のiなのか、吉増氏のこのあたりの分析は、具体的にはよく分からないが、だからどうだ、と切り捨ててしまうのはもったいない。「石狩シーツ」という傑作詩にも、生きていればめぐり合うこともあるだろう。私なりに、自分の道を信用しきらずに、探していく道筋となるのだろう。
「吉増 生きているか死んでいるかわからないような自分の存在を信用していないから、確かめようとする。そのあいだの道を懸命になって探そうとする。たとえば、ソクラテスがいいのは、自分自身を知ろうとして、一所懸命になって自分の言語を話しているじゃない。…吉本(隆明)さんはソクラテスみたいなんだ。おれは何も知らない。神話をこんなふうに解釈するらしいけど、おれは自分がわからないから、そんなことはわからないって。そういうソクラテス的なところ。あれがいいんだよなあ。」(58ページ)
「和合 『東北おんばのうた』に、お酒を「ぶんまけた」といってみんなに笑われてしまったという話が出てきました。面白かったですね。」(58ページ)
現在の東北に生きる私たちにとって、方言で語る場面というのは、ほとんど笑いとともにある、と言う事態は深く考えてみるべきことである、と思う。
「和合 今回ケセン語のなかで感じた遊びが、自分の日常の言語のなかに見当たらない。面白いことや奇抜なことが大好きな人間だと自分では思っているのですが、『詩の礫』から十年を経たこれからの仕事にそういう遊びの根本的な部分がもっと見えてくるべきなのかなと思いました。いつのまにか緊張ばかりで弛緩を忘れてしまっているのかもしれませんね。」(59ページ)
私にとって、気仙沼弁でしゃべる、というのは自然に口をついて出るというよりは、あえて、ある意図を持って使用している感が強い。家族や友人の間で、笑わせる、場を和ませる、という意図。方言は、笑いを誘う道具である。(あるいは、ごく希に、生な真情を吐露するツール)。これを,書く詩に取り入れていくというのは、相当に困難な試みとなる。困難だからやらない、ということではない。
そうか、お道化た詩を書いてみようか。
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