塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

アスリートに学ぶ仕事着の着こなし

2014-05-24 23:41:21 | 日記
 レーシング・スーツを纏ったF1ドライバーは本当に凛々しいですよね。

 当たり前ですが走行中はヘルメットをかぶりますから、取った際の清々しさが倍増する事も確かです。

 またワールドカップに向けて日本代表がダンヒルの新作スーツを纏うように、各国代表が公式スーツで歩く姿は、男の僕から見ても惚れ惚れしますし、ジョルジオ・アルマーニのように、指名された側も最高の名誉といえるでしょう。

 こうしたアスリートの出で立ちを見てもわかるように、例え仕事服でも

 「最低限の身なり」

 を整える必要が見えます。

 F1の場合はレーシング・スーツは身を守る意味合いもありますし、各国代表にとっては公式スーツそのものが「国家の代表」という意思を周囲に伝える形です。

 ですから、僕たちが仕事服に手を抜いてしまうと

 1・やる気があるのか無いのか
 2・自分という人間の存在価値
 3・周囲への配慮

 などが感じられないというマイナス要素が生まれるだけです。

 これから暑くなりますし、半袖になる方も多いでしょう。
 
 それでもあいさつ回り、取引先への訪問では

 「上着を羽織る」
 「涼しい印象を与える服装」

 を心がけてはどうでしょうか?

 自分だけでなく自社の株を上げるには、やはり我慢する面があるのは確かでしょうから。
 

 
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F1から見れば、サッカー広告は羨ましい限り?

2014-05-24 23:33:03 | 日記
 F1はロータス、ザウバー、ケイタハムが売却の対象となっています。

 かつてはフロントノーズに煙草のブランドロゴが刻印される、おおらかな時代でしたが、現在では嫌煙、分煙の世相を反映して煙草の広告はご法度になり、度重なるレギュレーション変更も行われています。

 日本GPが鈴鹿と富士という2カ所で行われたのも、その余波があっての事でしょうか?

 F1が煙草やアルコールを撲滅するならば、サッカーもその是非は今後検討の余地があります。

 少なくとも
 
 1・ブラジル・ワールドカップでのアルコール販売
 2・選手たちがビールのCMに起用されること
 3・リネカーが現役時代、スナック菓子の広告塔であったこと

 などはF1の関係者からすれば、非常に苦々しいものかもしれません。

 キリンは日本代表のスポンサーですから、代表選手の本田を指名して「淡麗」をアピールしている、にすぎません。

 アサヒ・ビールも長友を起用したのは、彼が人間的に素晴らしく、商品を売り込むのに最適だと判断したためです。

 つまり、アルコールやスナック菓子が煙草と同様に、食べ過ぎ、飲み過ぎで健康に悪影響を与える事は確かですが、スポンサーを締めだすことは無く、従って選手を起用する際にも

 「規制する縛り」

 が無い面は確かに存在します。

 今後、サッカーがF1同様、健康に留意する形でスポンサーを募るようになるかもしれません。

 それよりも人種差別と八百長を撲滅する方が、優先順位が先なのかもしれませんが。
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日常の中で疎外感を感じる時

2014-05-24 00:09:08 | 日記
 一方で疎外感は、同じ民族、同じ言語を話す者同士でも感じる物です。

 例えば僕は友人や同僚にサッカー好きが一人もいませんから、開幕まで1カ月を切ったワールドカップの話を誰ともできません。

 もし僕にサッカー好きの知人がいれば、中国戦の終了間際に岩清水が逆転ゴールを奪って勝利を得た瞬間、電話でもして、なでしこの健闘をお互いにたたえあったでしょうが、正直無理な話です。

 中田英寿が3度出場したワールドカップで、仲間たちとの「輪」を遠巻きに見ていた、とされるのも、同じように見えます。

 簡単に言えば

 「同じサッカー選手でも、価値観、見ている風景が違う」

 というわけです。

 もし、中田が自分を押し殺して小野や遠藤など、若い選手達とテレビゲームをし、カラオケで歌を歌えば彼らは中田に対しての見解を改める事になったかもしれません。

 でも、中田にとってそれは

 「精神的に非常にきつい」

 ものですし、彼にとっては例えネットの先とはいえ、自分のやり方に理解を示す人物の方が、近くてありがたい存在だったに違いありません。

 僕も

 1・皆で集まって騒ぐ
 2・食事会やカラオケ大会が好きでは無い

 ため、自分を押し殺し参加することもありますし、参加費を「惜しいな」と思う時もあります。

 そんな時に感じる疎外感、言い換えれば周囲の中に自分は確かに混じってはいるが、心の底から寛げていない、話し相手もいないという虚無な空間で時を過ごしている時のつらさ。

 2006年、中田がドイツの地で感じた感情は、案外僕も日常の中で感じているように思えます。

 
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外国語を学びながら感じること

2014-05-24 00:01:47 | 日記
 人間が一番孤独を感じる時にひとつに、周囲が話す言葉の意味が捉えられない時があります。

 孤独を疎外感に置き換えると、もっとわかりやくなりますね。

 大リーグでも欧州サッカーでも、日本人選手が通訳を介することがありますけれども、やはり必要最低限の言葉を覚えてから海を渡ると、随分気が楽になるはずです。

 僕も昨日、海外からいらしたお客様と英語で話しましたが

 「自分なりに教本を読んでおいてよかったなあ」

 と痛感しました。

 おひとりはその風貌からスペイン語かポルトガル語が母語ではないかと思いましたが、話している言葉は英語でした。

 中に日本語と英語の両方がわかる方がいらしたので、通訳して頂いたことで気持ちが楽になりましたが、自分の話す外国語が海外の方に通じるとわかった嬉しさは、僕でなくともわかって貰えるはずです。

 僕はサッカー選手がインタビューに答え、その字幕を見て学ぶことも多いです。

 でも、参考書の中にある

 「日常会話は背伸びをしなくとも、中学時代に学んだ代物で差支えない」

 という一文に同意します。

 僕がそこまでの学力が無い事も確かですが、むしろ誰もがわかる文法、単語を用いた方が単純に会話が成り立つというわけです。

 サッカーでも、マイボールを大切にし過ぎる、つまりこねくり回し過ぎてシュートの機会を失ってしまう時がありますが、外国語を学ぶ時も単純に考えた方が良い結果が待っている。

 そんな気持ちになった昨日の出来事でした。
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