塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

フットボール批評でシュタルフ監督の記事が掲載される

2022-06-15 20:01:20 | 日記
 フットボール批評でAC長野パルセイロ指揮官、シュタルフ悠紀リヒャルトのコラムが掲載されると聞き、店頭で確認しました。

 記事を執筆した木崎伸也はドイツに拠点を置き活動していたこともありますから、シュタルフ監督への取材うあ誌面構成も確立されている印象を受けました。

 アンドレ・ヴィラスのように30代で指揮官となる事例は欧州ではさほど珍しいわけではありませんが、日本ではそのような印象が薄いのでしょう。

 青年という言葉がありますが、通常は予備校生から大学卒業までの10代後半から20代前半を意味しますが、サッカーでは40代の指揮官を青年監督と呼ぶほど、その言葉には隔たりがあります。

 リーグのカテゴリーがJ3であっても、初戦のギラヴァンツ北九州戦で勝利し、長野という地で奮闘する青年監督は雑誌媒体からしても魅力あるのでしょうね。

 ちなみに長野Uスタジアムに一番近いホームセンターの一つ「綿半ホームエイド」

 AC長野パルセイロのポスターが男女問わず掲載されていますが、レディースのポスターの中心は今季で引退し、新シーズンからはGKコーチとして新しい人生を歩む池ヶ谷夏美なのです。

 レディースは中心選手が既に引退と移籍で4選手が抜け、同時に主将であった五嶋京香に替わる主将を指名しないといけません。

 チュニジア代表戦で吉田麻也の評判が大きく落ちましたが、それは彼が失点3に大きく関与したという事よりも

 代表主将として腕章をまく
 2011,2015,2019年3度のアジア杯で代表選出
 ワールドカップも2014,2018と2回体験している

 というように、浮ついた感覚からは程遠いと目されているためでした。

 長野パルセイロ・レディースの新シーズン開幕はまだ先ですが、腕章をまく選手の選出は時間がかかるかもしれません。
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ノルウエー代表ハーランド、新シーズンはプーマを愛用か

2022-06-15 10:59:49 | 日記
 マンチェスター・シティの一員となったノルウエー代表のアーリン・ハーランド。

 彼がシティの新シーズンの公式ジャージを着用した写真が公開されましたが、スパイクがプーマであるという点でも騒がれています。

 ハーランドはナイキの愛用者でしたが、ボルシア・ドルトムント時代の終盤ではアディダスを履いていたそうです。
 
 つまりプーマを履いて出場したことがなく、写真で履いていることは本契約のためか、それともマンチェスター・シティがプーマと契約しているたけ、形式上なのかがまだ定かではない点が、ファンの関心を呼んでいるんですね。

 仮にハーランドがプーマ契約選手となれば、2020年8月に迎え入れたブラジル代表ネイマールに続く、ビッグネーム加入となります。

 ナイキはフランス代表のキリアン・エムバッペが筆頭選手ですが、アディダスはマンチェスター・ユナイテッドを退団し、今後を模索するポール・ポグバを今後全面的に広告塔として起用してゆくのでしょうか。

 ハーランドがウルトラとフューチャー、どちらを好むのかわかりませんが、仮にプーマと本契約を結ぶのであれば、プーマ首脳陣とすればこれまでのように、フューチャーはネイマール、ウルトラをハーランドで売り込むと考える気がします。

 ロメル・ルカクがシーズン中、「インテルが懐かしいよ」と漏らしたように、実力者でもプレミア・リーグで馴染む、フィジカル・コンタクトやトランジションの速さについていくことが難しい一方で、優れたセンター・フォワードが集まってくることもシ事実です。

 グアルディオラは新シーズンを持って契約を終えると聞きましたが、ハーランドの獲得はUEFAチャンピオンズ・リーグ優勝の切り札になるかも注目でしょうね。
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助言、それは下手くその証

2022-06-15 10:44:35 | 日記
 僕は助言を好みません。

 助言されるということは、僕が下手くそだからでしょう。

 下手くそな事は僕自身が一番理解していますから、助言されるとその事実が脳裏に重くのしかかり、更に気分が晴れなくなるためです。

 マイケル・ジョーダンは現役時代、父であるジェームズ・ジョーダンに話しかけ試合の感想を尋ねたと言いますが、ジョーダンからすれば父は金や名声に関係なく、話しかけられる存在だった、という点も大きいはずです。

 ドラガン・ストイコビッチが現在、セルビア代表監督という重責を担っているわけでですが、その根幹には名古屋グランパスエイト時代の経験があると思います。

 そのストイコビッチもオ試合後、オシムに電話をし戦術を含む様々な要素を尋ねたそうですが、彼らは自分に意見に縛られない、言い換えれば向上心があると言えるのでしょうけれども、そこにはメンタルの違いもある気がします。

 僕は先週46歳になりましたが、いつもこう思うのです。

 「塚田盛彦から好きですと言われて、喜ぶ女性がいるとは到底思えない」
 「僕が恋をするなんでお門違いだ」

 僕は性格的にヨアン・グルキュフに似ているといつも感じていますが、2009年ボルドーでリーグ1優勝を果たした彼も、同時に正確が内省的であり、もっと大胆になることができれば、という指摘をされたものです。

 グルキュフはある意味「メディアスター」に本人の意思ではなくされてしまい、とりわけ同性愛者向けの誌面でも多々取り上げられることが多く、同時に女性からの愛情もすごかったと言います。

 それらはグルキュフからすれば、サッカー以外の観点でありどうでもよい話だと思っていたのですが、このメディアスターに形が2010年のワールドカップ、先輩選手からの嫌がらせにつながったとされています。

 僕はグルキュフのような実力者ではありませんが、彼と同じように内省的な性格だとは感じていますが。
 
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メディアスターと本物のスターを考えて

2022-06-15 10:31:22 | 日記
 かつてセルジオ越後は、マスメディアが続々と「〇〇のマラドーナ」という名称でスターを生み出す風潮にくぎを刺しました。

 この指摘はある意味正しく、ある意味で違うと思います。

 何故ならセルジオ越後自身がマスメディアに立場に身を置いており、その点については触れていない点にあります。

 自分を含めた日本のマスメディアの報道の在り様について言及し、反省と今後の展望が述べられて入ることが最善とは思いますが、結局当時から現在までその報道体制に変化はないように感じますね。

 マスメディアが考える「メディア・スター」と、自然発生的に生じる本物のスターは何が異なるのでしょうか。

 中央公論文庫から発売されている池波正太郎作品「青春わすれもの」の中で、15代目市川羽左衛門の話が登場します。

 16歳の池波少年が手帳を万年筆を取り出し、ありったけの勇気を振り絞り話しかけると

 「明日、またここに来れますか」
 「その際に色紙へ書いたものを差し上げますよ」

 と語り掛け、実際翌日手渡すんですね。

 そして16歳の少年に「どうも御贔屓に」と丁寧に頭を下げる、本物のスター、言い換えれば作られたスターでない存在は、何もしなくとも人間的慈愛にあふれているのでしょう。

 作られた存在は選手自身が一番理解しているでしょうし、むしろ実力ではなく「金に換算」出来る存在であることが、虚無感やいら立ちを与えてしまうような気がしてなりません。

 僕は歌舞伎や狂言に代表される日本の伝統芸能に疎く、出し物に関しても「勧進帳」に代表される有名な存在だけがかろうじてわかる程度です。

 しかし市川羽左衛門のような本物のスターがいれば、人は自然と芝居に関心が沸くと思いますし、ブラジルで今でもペレが敬愛されるのは、ペレが人間として人々を優しく見つめてきたからではないでしょうか。
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