不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

おしゃべり・・・ 村橋久成

2021-03-08 19:56:19 | 無題

 私の部屋の壁に「北に夢を追ったサムライ」ー村橋久成の残響 というポスターがまだ貼られています。20015年の日にちが入っていますから随分長いこと私を見つめていてくれたのです。
たまたま、渋沢栄一が大河ドラマとして始まったばかりで、主人公渋沢栄一とかかわるのでとりあげてかい書きます。
 手稲在住の田中和夫先生の小説「残響」の主人公で、サッポロビールを誕生させた方なのです。島津藩の藩士で戊辰戦争にも参加し、五稜郭の戦いでは、五稜郭の幕臣を降伏に至らせる働きもしていました。
 新政府が発足し北海道開拓使が設立され、北海道開拓が始まると開拓使の一員として場広い分野で業績を上げたのですが、取りわけ札幌ビールとの関係は深いものがあります。東京にビール工場を立ち上げるという話を聞き、ビールは札幌が立地条件に適うと考え黒田清隆に進言をして苦労の末サッポロビールの製造に成功したのです。北海道にはこれという企業がまだ出来ていない中でサッポロビール工場が誕生したのです。
 ところが、完成後間もなく村橋は姿を消します。その数年後神戸で行路病者としてなくなるのです。北海道に残した村橋の足跡は屯田兵を始め多くの農産物の生産にも重要な役割を果たしていて、高橋知事が就任の時、残響の村は詩に負けないように頑張るといったことで改めて見直されたのでした。札幌ビール工場の歴史に当然乗るべき村橋の名前は名かったのです。村橋が行方不明になって間もなくビール工場は民間へ払い下げられたのです。そのあたりから渋沢がかかわったようなのです。村橋は此のビール会社を北海道発展の起点にしたかったのでしょうが、維新政府による民間払い下げは我慢のできないものがあったのでしよう。頭を剃り出家するくらいのことでは我慢のできない虚しさが行路病者へと村橋を追いやったのでしょう。/div>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おしゃべり・・・運が良かったのだ

2021-03-07 19:12:13 | 無題

 運がいい、いいめぐりあわせだ、ついていたなんて言葉があります。
 私の人生現在まで、教員歴38年、吟歴47年、でした。今も詩吟の先生をつづけていて、私の人生は詩吟で彩られていたと感じている。
 携わったときの長短だけでない思いがけない幸運に支えられてきたと思う。管理職に推薦されたけれど試験で落ちてしまった。これがラッキーの始まりなのです。挨拶下手の私です、管理職はなりたくなかった。試験は真剣に向き合ったつもりですが落第しました。おかげで詩吟をやりとおすことができたのです。次に札幌への転勤をそれとなく期待して手稲のこの家を建てて二年目に転勤出来たのです。そして、美唄で私の所属した詩吟の会が手稲にないので、剣風会手稲に入会させてもらい、本当の詩吟の先生に詩吟を教えていただき、詩吟を教える自信を持つことができた。(剣風会手稲は5段でやめて、元の流派へも取りました)、勤務校の校務分掌が団体事務局ということで、PTAや後援会の父兄の皆様を相手の仕事となり、その仕事の一つに公開講座があり、それを組織していく中で、詩吟入門講座を開設し、これが私の詩吟の教室の出発となったのです。そして退職をした年に手稲老人福祉センターが発足し、そこの詩吟講座の講師を引き受けたのです。丁度退職の年だったことが幸運でした。ここから詩吟のお弟子さんを沢山作ることが出來、一昨年の12月に重度の肺炎になり、3週間入院して、12月の末に退院しました。そして教室を2月から再開瀟としたらコロナの問題が起きて教室も休むことになりました。この入院の時に福祉センターの詩吟もやめました。ところが、福祉センターの詩吟の講座もコロナの関係で休講となり未だに再開できないでいます。丁度福祉センクターの講座をやめるのと休講になるのが重なったのです。その1年前2018年の11月に札幌市の市民表彰で社会教育功労者として表彰を受けました。この主要なファクターに福祉センターの詩吟講師の経歴がありました。70歳ころ、85歳ころまで詩吟続けられるかと思っていましたが、何と間もなく91歳の誕生日が来るのです。良いめぐりあわせに恵まれたのですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おしゃべり・・・おしゃべり相手

2021-03-05 19:08:02 | 無題

 私は本当に話が下手だ。同じ趣味の方とそのことについて話す分には困らないのだけれど、知らない人に話しかけることは全くダメです。たとえば、昨年からリハビリーに週一度出掛けています。みんなで15名ほど集まるのですが、そのうち男性は5人です。一年経っていますが、まだ一度も話したことのない人がほとんどです。家内も一緒に行っているのですが、家内はほとんどの人の名前とか、どのへんに住んでいるかを知っている。(家内はこのリハビリーには数年前からきている)、そんな前歴があるからといえばそれだけなのだけれど、そのあたりに男と女の違いがある。男同志の場合、その方のプライドを傷つける話になると困る。簡単に本職を聞いたりできない。女性のように料理の話、子供の話などを話題に持ちだすこともできない。みんなで話す場面でもあるのなら少しづつでも気心が分かり暇なときにおしゃべりもできるのでしょうがそれもない。私は本職が教員だったので、先生だったのだからおしゃべりは得意でしょうなどといわれることがありますが、仕事での話はいくらでもできますが、世間話になると全くダメなのです。学校という小さな箱の中で過ごしていましたので、世間知らずでした。生まれ育った地元で先生になったのなら大分違ったと思いますが全く知らない土地で、仲間同士の付き合いだけでは、世間知らずになってしまうのです。私はその部類です。自宅を建てて町内会のお付き合いをするようになってようやく分かってきたことがいろいろとあります。逆に分からないままに失礼をしてしまうこともありました。思い切って、町内会の宴会などには積極的に参加し、二次会に我が家に連れてきて飲んで騒いだりしました。そんなことが町内会副会長の時代にとても役立ち、楽しい活動ができたように思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おしゃべり・・・弁舌

2021-03-04 18:32:43 | 無題

 私の父は話が上手だった。ひとと喧嘩するような話は聞いたことがない。小学校長として、の方たちを前に話す話はとても小学生の私が聞いても上手だと思う話ぶりだった。奉職して聞いた町長さんの話は何ともひどかった。それなら私でもしゃべれると思うほどだった。それが数年たったら結構聞けるようになった。上手になったのです。何でもそうですが、場数を踏めば、それなりに力が付いてくる。しかし、型通りの話を型どおりにできるようになるだけで、話の中にウイットを聞かせたり、笑いを取ることをしてみたりすることは、話し上手、弁舌にたけた人となる。それも考え抜いた原稿でなく、当意即妙に話せる人こそ弁舌にさわやかな人となるのでしよう。そんなことを思いながら自分を振り返る。何とも話し下手の情けなさがこみあげてくる。数えきれないくらい挨拶などはしていますが、上手にやれて良かったという思いでがない。其れよりも、話の途中で横道にそれてまとめるのにとんだ苦労をしたことの方が多い。
 最近は、挨拶をしなければならないような場面もなくなり、その必要が無いだけにますます頭の中が空洞化して、とてもまとまった挨拶もできないだろうと思うようになっている。弁舌はおろか、駄べりすらおぼつかない自分にあきれている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おしゃべり・・・おしゃべり上手

2021-03-03 19:15:14 | 無題

 東京五輪組織院長だった森さんが、女性は話したがり屋が多いから、女性の理事が多いと時間がかかるといったようなことを言ったということで、大変な仕事を取り上げられることになった。
男性と女性を比較してみると、絶対に女性の方がおしゃべりだ。男女の感性の違いなのでしようか。友達になるのも早い。一度どこかで知りあって少し話しただけなのに、しばらくたってあったら、昔からの友達みたいに話しを弾ませている。私にはできないことなのでいつも感心させられる。確かに女性には、家族のことも食事のこと、化粧のこと、着物のことなどなど男性にない共通の話題があり、話題の中にその人の特徴が出て印象に残るのかもしれない。
 それはそれとして、おしゃべりも上手にもなれるし、下手にもなる。どうも私は下手になるほうに属するみたいだ。性格に依るのでしょうか、人の中に入っ行って、積極的に話の仲間に入ることなのでしよう。人の話がつまらなければ話の方向を変えてやる位のことをすると変わってくるでしよう。話の輪の中に歯中心になる人がいて、その人を押しのけてまではなかなかできないのでしょうが、自分にも経験があったり、違う意見があったりする時にどこかでそれを発表していくのことができると良い。おしゃべりでも、そこに秘められたものがある。それを感じ取り、自分の話題をを膨らませるようにすればよい。それにしても話相手がいなければどうにもならない。今私は90歳間もなく91歳です。おしゃべりの機会が本当に少なくなっていて、おしゃべりを忘れるのではないかと心配しています。話し上手という人はいます。逆にに話し下手だった人が何年か合わないうちにとても上手になっていて驚かされることもあります。
 普通の駄べりと人前での挨拶があります。人前の挨拶は、上達が早いですね。
 最近とみに話が下手になってきている、書いてみましたが、継続して話をする時に、話の主題から離れると、覚えているはずの話の中身の名前が出てこなくなり話が壊れることが多いのです。おしゃべり下手の見本みたいな一文になりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おしゃべり・・・お笑い

2021-03-01 19:33:53 | 無題

 コロナが始まって家に居ることが多くなり、テレビを見ることが多くなった。中でもお笑い番組が幅をきかせていて、ついつい見てしまうことが多くなっている。困ったことに、これも歳のせいで耳が遠くなっていて、テレビの音声が良く聞取れないのです。でも今まで知らなかった名前を覚えたりしています。昔の漫才師とか講談師、落語だとかはとても良く笑わせられたり、泣かせられたりしたものでしたが、今の若い漫才師の話は私を笑わせるような中身でない。今一番の笑いは笑点です。 昨年だったと思いますが、娘が札幌落語シリーズの入場券を持ってきてくれた、札幌芸術劇場での落語でした。3階の席でした。身振り手振りはもとより声も聞こえない何ともつらい時間でした。落語は小劇場でなきゃだめですね。笑ったといえば、もう何十年か前てすが、当時文化講演会などを町が企画し、小説家とか、作曲家だとか、有名人を招いての講演会が年一度くらい開催されていた。この人たちの話は、いろいろなエピソートを盛り込んだリアリティのある話が多く、涙を流しながら笑って聞いたものでした。今のテレビのお笑いでは笑うこともありません。歌手のホテルでのデイナーショウなども何回かいったことがありますが、お客を前に鍛えてきた方たちです。やっぱりトークが人をひきつけ楽しい会にしてくれます。中央区にいれば機会があるのでしようが、手稲だと一年中目を凝らし新聞の広告を見つめていれば素晴らしい機会にも恵まれるのでしょうが、それも面倒になっています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おしゃべり・・・・小学生のころ

2021-02-28 19:48:03 | 無題

 小学校に入学したのが昭和12年、日中戦争(̪支那事変)の始まった年です。学校に在る本は戦争ものばかりです。数が少ないからすぐ読みつくしてしまう。それでも、小学校3年生のころ、吉田先生が一冊の厚い子供向けの中身の本をお持ちになって、時間を割いて読んで下さるのです。それが本当に楽しく待ち遠しかった。この吉田先生が一度詩吟を聞かせてくれた。それが忘れられず、結局私の後半生を形成することになった。本を読みたくて父の書棚を調べたけれど、子供の読める小説はなかった。ただ、青色の装丁の大衆文学全集全7巻があり、これが小学生時代の読書の対象でした。此の当時蓄音機がありましたが歌は軍歌ばかり、ほかは浪花節でした。浪花節は良く聞きました。廣澤寅蔵の次郎長もの等を聞いて楽しんでいました。演歌が好きなのもこんな生活からきているのかも知れませんね。
 終戦が永山の一年生の時でした。終戦後の混乱は教科書を墨で塗りつぶすようなところから始まって、整然とした学校の雰囲気がこわれ、社会基盤もこわれて、ようやく新しい時代を感じられるようになったのは二年後くらいからだったと思います。新しい書物や、映画も復活し新しい時代が来たのですが、私は本を買うような余裕もありません。師範の本科に入ったころから、少しづつ本を読んだり映画を見たりして、新しい時代を受け入れるようになったのですが、故郷の青年団に入り、インテリぶって文芸誌を作ったり、演劇をやったり、フォークダンスを教えてあげたりすることに熱中した思い出があります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おしゃべり・・・友達

2021-02-27 18:58:22 | 無題

 本当の友達・・・いません。ライバルとして共に学び、教え合い助け合い何十年かの人生を、まさに苦楽を共にするような付き合いをしてきた友達を、親友=友達といえるのでしよう。私にはライバルとして張り合うような友達がいなかった。私がいけないのです。何事もとことん本気で追及する何物ももたなかったからなのです。人生の中の何年かという間の友達は何人もいます。多くの人がそうかもしれません。
 一人とても不思議な縁の友達がいました。先日稲苑大学のことを書きましたが、12期に応募して抽選で落ちて、13期になったということを書きました。その12期にいた方で「よしさん」で通っていた方です。
知りあったのは「いの平」でした。12期を卒業し、これからOB会で楽しめるという時に、OB会を退会したのです。高等学校は札幌西でした。卒業後国鉄に就職して定年まで勤め、定年退職後鍼灸治療士の資格を取ったという方です。足腰を鍛えるといって新聞配達の仕事をづけておられました。とても人を引き付ける性格の方で、私が詩吟をやり、漢詩を作ったりするのを認めてくれての友達だったのかもしれません。とにかく話が合い一緒すると私は10時に帰ることにしていましたが、いつも帰るまで話し相手になってもらっていました。あるとき、書き溜めていた随筆を持参して読んでみてくださいという。現役の時に書かれたものや、退職後のことを雑文と銘をつけて書いたものでした。読んで、そのまま返すのに何かもったいなくなり、「私の雑文集」というタイトルで、PCで印刷して冊子にしました。そして、次の日にでも「いの平」であって、差し上げようと思い電話を入れました。これが初めての電話でした。電話に弟さんが出て「兄は夕べ亡くなり今晩葬式なのです」という。え!といったきり言葉をつづけることも出来ない驚きでした。前の晩、やはり「いの平」に行っていて、他の友達と二次会に出掛け、その帰りぎわに滑って転び階段に頭を打ち他界したといいます。いい友達だったのですが、折角作って上げた雑文集も見てもらえぬままに別れてしまいました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 おしゃべり・・・山菜とり

2021-02-26 19:22:43 | 無題

 上川にいたころは学生時代、戦時中から終戦後の一番ひどい時代でした。米がなくてジャガイモとかかぼちゃが主食になることもしばしばでした。そんな中いちばん先に食べられる野草が ヤチブキ  でした。堅雪を渡って川淵に行くとまだあたりは雪なのに雪の解けた川縁に鮮やかな緑が姿を現しているのです。撮ってきてほしいといわれたわけでないが、取って帰ったものでした。本格的に山菜取りをしたのは結婚してからです。家内の義兄が月形にいて、山菜採りの名人みたいな人でした。月形近在の山菜場所をよく知っていて、時期になると誘ってくれました。アイヌネギから始まって、独活、蕗、竹の子、キノコまで毎年楽しませてもらいました。山間に入ってゆきます。鶯の鳴き声が沢一杯を包みます。あの声を聞くだけで 十分です。山菜もさる事ながら、あの鶯の声をもう一度聞きたいものだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おしゃべり・・・・釣り

2021-02-25 19:21:07 | 無題

 大雪山の麓、上川郡上川村字東雲というところが私の育ったところだ。このは全部水田農家で戸数は20軒に満たなかったと思う。ただ別に、安足間発電所がありその従業員の官舎が一棟二戸6棟が一塊であって、ここの方たちがいわばインテリー層と思われるだった。そのの小学校長が父だった。
 この小さなは水に恵まれていて、石狩川の本流が流れ、更に愛山渓を源とする安足間川が流れのはずれで石狩川と合流していた。更にこの二つの流れの真ん中を水力発電の水路が掘られている。石狩川、安足間川のどちらにも支流が流れこんでいて、その支流が私たちの釣りの場所だった。釣れるのはヤマメと雨鱒、イワナ(おしょろこま)です。小学校の5年生くらいからヤマメ釣りを覚えた。
 自分ではヤマメ釣りは名人だとおもっていた。奉職してから先々で友達をヤマメ釣りに誘ったけれどまともに競争できる人はいなかった。それが、札幌に来て覆らされた。仕掛けが違うのです。その仕掛けを使うと素晴らしいのです。それ以来、今までの仕掛けを捨てて、この仕掛けをまねしてやってきました。
 札幌に来た頃は浜益まで出掛けていましたが、赤井川を教えられ、其れからは毎年赤井川に出かけていました。6月ころは越年ものの良いサイズのものが釣れます、10月になると新子が釣れるのです。
あのヤマメ・・・私たちの小さい時はヤマベと読んでいました、漢字で書くと山乙女と書きますがきれいな魚です。もう釣りをやめて何年になるのでしよう・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする