手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

おしゃべり・・・囲碁 段はもらわなかった

2021-02-23 19:05:59 | 無題

 囲碁・将棋・・・趣味の定番、囲碁は2段でうってもいいといわれたが、初段の免許ももらわなかった。奉職した沼田高校で英語のNA先生と、囲碁友達となった。二人とも初心者で白黒を奪い合いながら楽しんだ。7~8 ,年で4~5級になったころ、沼田で北空知囲碁大会が開催されていました。4勝または5勝一敗で予選通過となります。有段者の部と級位の部があり、二人で挑戦したこともありました。徹夜の大会になります。プロ棋士がいらっしゃっていて、何人も一度に相手にして打ってくれる。有料だけど、負けても点数に関係なく勝と一勝をもらえるだから三勝するとプロの先生にお願いすることになります二人とも結局予選通過できなかった思い出があります。
 美唄東に転勤になったら、強い方が沢山いらっしゃいました。中で5段をお持ちの方がいて、良く相手にしてくれたのですが、5目おいて相手にしてもらうのですが、かなわないのです。あるときの勝負で初めに「5目勝つからね」といわれてほんとに5目負けたことなどいまも思いだされる。札幌西陵に転勤になって、一番の友達だった友成先生は6段で、四目でいいよといって、四目置きで相手にしてくれた。ほとんど勝てなかった。それでも、初段の免許申請してあげるといわれたけれど、断りました。二段で打ってもいいよといわれていたけれど、定石の勉強もしていない状態では免状が泣くと思って断った。碁盤は自分で買った練り物一台と美瑛の義弟に貰った新品のトドマツの7寸の厚さにきれいな木目の入ったものがあったけれど、使うこともなく詩吟のお弟子さんで強い方がいましたので、二台とも進呈しました。退職後暫く老人福祉センターの囲碁・将棋の部屋に通いましたが詩吟が忙しくなりやめました。今は誘われても打てないでしょう。
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おしゃべり・・・・マージャン

2021-02-22 19:01:23 | 無題

 退職の年、北大で肺の無料検査をしてくれるというのを聞き、応募しました。普通の検査にない内視鏡まで入れての検査を無料でやってもらいました。結果、肺気腫です。煙草やめなさい。と診断されました。でもすぐタバコをやめないでいたのですが、たまたまテレビで病院の廊下を酸素ボンベを引きづって何人もの人が歩いている姿が放映された。これを見て即座にタバコをやめました。60歳の時です。それ以来、北大の呼吸器科へ毎月検査に出かけることになりました。担当が西村先生でした。当時はまだ教授になっていませんでしたが、途中から教授に出世され、定年退職の時まで世話になりました。途中西村先生が指導されていたCOPDコホート研究会の協力員になるよう頼まれて5年間お手伝いして、感謝状をもらいました。西村先生の退職と同時に、かかりつけの病院を渓仁会に移してもらいました。
 60で肺気腫、お気づきだと思います.麻雀なのです。大学生のころから覚えて虜になりました。煙草はつきものです。そのつけが肺気腫だったのです。麻雀は強かった。でも、タバコをやめると同時に麻雀もやめました。麻雀の自慢をする人と随分お会いしていますが、その話し相手にはなりませんでした。
 それにしても随分長生きしています。肺気腫で最近は歩くこともままならなくなっていますが、それでも詩吟の教室一つはちゃんとキープしています。ただコロナでカラオケができなくなり、生きがいの一つを失っています。
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おしゃべり・・・・パークゴルフ

2021-02-20 19:56:55 | 無題

 退職して2年目くらいからパークゴルフに取りつかれた。ゴルフはお金もかかるし、相棒もいないので初めから諦めていた。そこでパークゴルフを知り、はまりました。町内会でもやっている人は殆どいなかった。朝6時に稲積公園に行き、一時間ほど遊び、帰宅して朝食が終わると森林公園に出かけて、時によっては午後まで通して遊んだりしていました。そのうちに山口西(バッタコース)ができて、バッタクラブというクラブもできたと聞いて、早速仲間入りしました。このバッタクラブは会員200名くらいいまして、私の町内会から他に三人の四人が入会しました。毎月大会が開催されます。長いこと在籍していましたが、優勝したのは1回だけでした。パークゴルフをやりはじめて、これは運動にもならないと思ったりしていましたが、85歳を超えたあたりから、今度は18H回るのがやっとになってきました。88歳の時やめることにしました。それでも道具一式車に積んだままで、まだ未練が残っているようです。しかし、酸素ボンベ引っ張って行く気にはなれません。そこそこ活躍しましたが上手にはなれなかった。いい友達もいたのですが、今は名前も思いだせなくなっている。
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おしゃべり・・・

2021-02-19 19:38:06 | 無題

 手稲文化協会のある都市の新年会、手稲アカシヤ俳句会の俵先生が面白い人がいるから紹介する、といって連れてきた方、男性でとてもおしゃべりなのです。私が詩吟をやっていることを俵先生から訊いてきていて、漢詩は好きです。特に杜甫の詩は好きです、という話になって、私も杜甫は好きですというとすかさず「客中の作」あれいいですねと来た。「蘭稜の美酒鬱金香/玉椀盛り来る琥珀の光・・・」此の詩の玉椀が玉杯でないのは平仄の問題で、しかし、玉椀の方がいいという。そして近くに有った紙に詩を書き始めた。暗記はできても書くことは一寸むつかしいのですが、それをすらすらと書き上げたのには驚きました。お酒も強く、いい友達になれそうな気がしました。俵先生は星置というところに住居を構えておられますが、私の「いの平」の飲み仲間で、私がさそうと必ず来てくれました。それで彼も呼んであげて、何回か「いの平」で一緒に飲んだりしていたのですが、突然来なくなった。話を聞くとアカシヤ俳句会が解散してしまったということでした。そのあとしばらくして電話が入って、文化協会の短歌サークル樹華会に入りました。牧野先生を囲んでの一席設けるから来てくださいという誘いだった。彼の短歌は何首か見ていました。しかし、どれも本歌取りで、古今集の歌をしのばせたものがほとんどで、みんな本歌取りでしようといったことがありました。そんなことがあってしばらくしてから、私の隣のご主人が樹華会の会員なので、彼の話をしたら今会長になっているという話でした。それから間もなく樹華会が解散してしまったのです。会員も少なくなってようやく維持されていた会ですが。彼が入って会をつぶしてしまったのです。俳句の会、短歌の会二つとも彼が入ってつぶれました。その後たまたま私がよく行く昼カラに短歌の雑誌などを持ってきて、得意になっているのに出合いました。しかし、私はどうも彼に同調するものがなく、離れました。しばらくしてその店から来店お断りされたということです。どうしているのかわかりませんが、確かに勉強をしているのは判りますが、自分本位に過ぎるところが皆様と会わなかったのかと思います。
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おしゃへり・・・町内会の思い出

2021-02-18 19:26:32 | 無題

 手稲のこの家に住み始めて53年になる。半世紀こえているのですね。家を建てた当時のことを書いている暇がない。
 48歳でこの地に現在の家を建てて暮らしてきたのです。町内会にもいろいろ世話になりました。来たころの町内会長さんは星野さんで、車をお持ちでなくもっぱら自転車で走り回っておられた。私はこの歳まで町内会というものに全く縁がなかったのです。この地に住まうようになり、間もなく星野会長と知りあった。星野会長は自転車で毎日のように町内会を回り、外に出ている方がいれば立ち止まって話しをするような方で、町内会の全戸をご存じだったと思います。町内会の顔役のような佐々木徳松さん久木さんがいて、星野会長は佐々木徳松さんから名指しで指名され町内会長になったということでした。どういうわけか私は星野会長に気に入られていました。そのうち何年かして星野会長が突然入院ということになりました。その時副会長にさせられて、会長の入院している間、それまで見てきたとおりの形で役目を果たしまし。右も左もわからないままの副会長でした。一年で終わり、総会やれやれと思っていたら、役員選出のところで佐々木徳松さんが突然立ち上がり次の副会長は村川さんにやってもらいますというのです。全く考えても見ない氏名に面喰いました。そんな役員選出の時代だったということです。結局二年副会長をやりました。それから数年してある日の夕方若林さんがおいでになり、新年度から町内会長をやることになったが、私に副会長をやって助けてほしいというのです。副会長なら大分町内会にもなれているので引き受けました。その時、役員は同じくらいの年齢の方が多く、しかも酒好きで、仕事の仲間にもってこいでした。それまでいろいろ気にしていたことをどんどん改め、町内会の活動は面白いといってみんな出てくれるようにと頑張りました。
 どうせやるなら、楽しい町内会にしていこうということで、今までやっていたことも、できるだけ楽しいものにするよう努力しました。夏休みの朝の体操にしても、役員全部が率先して出て、皆様を誘いにぎやかなものにしました。又、盆踊りなども、町内会の婦人部に頑張ってもらい、今までにない盆踊りらしい盆踊りにしてみたり、新年会も余興出演者を募集したり勧誘したりして、盛り上げました。とにかく二年の約束を4年続けてやってあげました。そのあと、会長になれと随分責められたのでが、私の本職は詩吟だったので、詩吟に影響の出る会長職は最後まで引き受けないで終わりました。
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おしゃべり・・・・テレビに出そこなった話

2021-02-17 19:23:33 | 無題

 社交ダンスの会が崩壊して、仲間が集まって先生無しのサークルで遊んでいたころの話です。ある日一本の電話が入り、老人福祉センターに「元気なお年寄りを紹介してほしいと話したら、詩吟の村川先生を紹介くださいました。是非一度お会いできる機会を持ってください」という、民放のテレビ局でした。話だけと思ったので、ダンスの日なら話の時間が採れますので、ダンスの日にお会いすることにしました。手稲中央会館でダンスをしているところへ4人くらVTRの機材を持っていらっしゃいました。いろいろ質問されました。その後踊って見せてくださいといわれ、丁度ワルツの稽古をしているときでした。そばに小野ママが来ていたので、一寸踊ってといって、会場半分くらい回ったところで結構ですといわれ、戻ってきました。戻るとすぐに「ミヤネ屋」ってご存知ですよね、といわれた、反射的に「いえ、知りません」とはっきりいいました。すると rえ!」といって、挨拶をしてお帰りになった。私はほとんど昼間のテレビを見ることがなかったので本当に知らなかったのですが、ミヤネ屋が うりだしたころで、その関係のテレビ局だったのかと思います。断定はできないけれど、ミヤネ屋につながる番組で、それを知らなかったからか、ダンスが下手だったからかのどちらかが原因でテレビに録画されたけれど放送されずに終わったという情けない話です。当時私は詩吟の教室4つ、ダンス、カラオケ、パークゴルフをやり、PCでブログを毎日書く、さらに文化協会の事務局長もやっているという将に元気いっぱいの老人だったのです。まあ情けない姿をさらすことがなくて良かったのでしょう。
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おしゃべり・・・・社交ダンスにも挑戦した

2021-02-16 19:09:32 | 無題

 定年退職して身軽になったところで社交ダンスに挑戦してみる気になった。手稲文化協会に加入して知りましたが当時文化協会に社交ダンスのサークルが二団体ありました。更に手稲市内にいくつものダンスサークルがあることも知りました。そのころ居酒屋「いの平」に足しげく通っていて、ダンスの話をしたことはなかったのですが、小野ママに、社交ダンスをやってみようかと思っていると話したら、即、私の入っているサークルにいらっしゃい。大歓迎!!!と誘われた。小野ママが社交ダンスをやっていることを知らなかったのです。この話の出たとき、これまでもいい友達になっていた佐藤安康さんが私も一緒に行くと名乗りを上げてくれて二人で一緒にクラウンダンスサークルに入会しました。会員が50名くらいいました。先生が80歳を過ぎた男性の方でした。80歳過ぎてダンスの先生!!!と驚いていました。また いの平のママ小野さんがこのサークルの主みたいな人だったのです。稲苑大学の修了式近くなったら出掛けて教室でサヘクルの紹介をし新しい会員を集めておられたのです。
 手稲コミュニティセンターの体育館でレッスンです。体育館が三分の一区切られて、狭い方で新人は、先生の助手の方に指導を受け、上手になった方たちは広いところでさっそうと踊っているのです。さて高をくくって入会したのですが、最初に教わるのが、キュウバンルンバです。こんなにむつかしいとは思ってもいませんでした。少し動くと汗が飛び散る、下を向くとしたをむかない!!!と怒られる。スロー、スロー、クイック、クイックなどと想像していたのが「ツー スリー、フォー ワン」といったカウトの取り方で、組んだり離れたりしながらいくつかのフォメ―ションをこなして行くのです。何とか踊れるようになるのに一年かかりました。ところが、手稲区のダンスパーティに出て見たら、他のサークルの方たちの踊りと違うのです。いくつかのバージョンが違って、しかも他の方が派手なのです。あとで知りましたが、北海道バージョンと私たちの先生の教えるバージョンに違いがあったのです。それに怖気けて他のサークルの方と踊る度胸がでないまま終わってしまいました。結構サークルの中では上手な方だったと思いますが、度胸がなかったのですね。5年くらいそれでもやり、会がつぶれてやめました。
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おしゃべり・・・稲苑大学13期でした

2021-02-15 19:38:10 | 無題

 手稲の老人大学です。勉強・・・生涯学習の一環です。この大学の2期に詩吟の仲間(剣風会手稲)西田さんが入会し、20名ほどをまとめて剣風会稲苑道場を立ち上げ、稲苑大学の会場になっていた手稲コミュニティセンターの会場を使用料減免で使わせてもらい活動を始めていた。彼は当時手稲文化協会の副会長もやり、地元の町内会長などもやるとても行動的な方でした。そんな活動をされている中で、手稲老人福祉センターが開設され、私が詩吟講座の講師となり活動を始めました。それを知り彼は、福祉センターの館長に詩吟講座の講師を半年交代にしたらどうだと話を持ちかけました。そのあと館長から相談があって知ったのですが、私は半年は短かすぎます、一年交代でいいのではないですかと答えました。それで一年で交代になると覚悟を決めていたのですが、その話が受講生にどこからか漏れて、受講生の中から村川先生をやめさせないでほしいと館長に申し入れがあったのだそうです。そんなことで結局昨年の一月まで私が講師をつづけることになったのです。しかし、稲苑大学大学に行き、そこで詩吟のお弟子さんを見つけるのはすごく魅力的なことでした。それで、12期に応募しました。その時、町内会の私は副会長をしており、会長の若林さんに一緒に入ろうと誘いました。ところが、応募者が多く抽選になり、若林さんが合格、私は次年度送りになりました。結局私は13期の稲苑大学大学卒業生になったのです。ところがこの13期は私の思惑、詩吟のお弟子さんを見つけるのには最悪の会だったのです。詩吟をやっている人も多く、私の教室の教場長、福祉センター講座受講生の世話役のトップの方、先に書いた剣風会手稲の西田さんたちの会の指導者の方まで来ていたのです。それでも強引に誘いを入れて男性2人を仲間に入れることが出來、更に9期の男性で「いの平」の仲間で観世流の謡曲を長いことやっていたのだけれど、肺気腫で札幌へ稽古に出向くことが厳しくなったので、謡曲を止め詩吟の仲間に入れてほしいと入ってくれたのが北出さんでした。結局稲苑大学大学で仲間に入ってもらったのは2人と北出さんの3人でした。ちなみに、西田先生の立ち上げた稲苑道場は西田さんが個人的な都合で手稲を去られ、そのあとを女性の先生が継いだのですが、教え切れず会が崩壊してしまいました。崩壊後、私が講師をしていた老人福祉センターの詩吟講座に10名くらいいらっしゃるようになり世話を見て上げました。 誘った方が落ちて、誘われた方が入った稲苑大学。
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おしゃべり・・・・「花林」という短歌会に入ったことがあった

2021-02-14 19:30:34 | 無題

 現役のころ、詩吟で山地吟友会の山地通夫先生と知り合い、先生が奥様とご一緒に主宰されていた短歌会「花林」の仲間に入れていただいて何年か在籍しました。二週間に一度の短歌会に出て先生(山名康郎先生)ご指導を受け、二た月に一度一人10首ほどの投稿をして同人誌「花林」を発刊していました。しかし3年くらいして、行き詰りました。おばさんたちがこともなく日常茶飯のことを歌にし上げているのに、私は頭でっかちで身の回りに転がってるものを感動を持ってとらえることができないのです。二か月に10首の歌を作ることが苦しくなりやめさせていただきました。それでも平成3年に開かれた第3回全道花林短歌大会の批講(司会)を仰せつかり100名くらいの参加者の短歌会を無事終了させたのは今も懐かしく思いだされますが、続けられなかったのは残念でした。もちろん詩吟が私の命で、二道掛けるのは私には無理だったのだと思います。
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おしゃべり・・・お酒

2021-02-13 19:18:08 | 無題

 お酒に絡む思いでは多い。しかし、私はお酒が好きだったとは言えない。たたお酒を飲むと、誰もがそうだと思うけれどついついおしゃべりになる。でも振り返ってみると、現役時代最初の赴任校沼田ではいい飲み相手の同僚がいて、ずいぶん居酒屋をはしごして歩いたものでした。ところが二校目の美唄では一かたまりの教員住宅に入ることになり、飲み仲間になってくれるような人もいなく宴会の酒を飲むくらいで、楽しい酒をあまり飲めなかった。ただ、M校長先生の時は、校長住宅に招かれおいしいお酒を飲まされた記憶がある。九州男児で剣道の達人、書も素晴らしく、いただいた漢詩の色紙と和歌の色紙は額に入れて今も私の部屋に飾ってある。15年いたのだけれど美唄の街にはなじみの酒場は一軒もなかった。
 最後が現在の住まい手稲になった。新設高校で設立三年目に赴任したのでしたが、同じ年に赴任した、F先生とT先生がとても付き合いの良い方で、お酒を楽しく飲まれる方でした。たまたまF先生は着任して暫く手稲に居を構えることになり、手稲でよい飲み屋さんを見つけて誘ってくれて一緒に遊ぶようになって手稲の街に馴染みの酒場が数軒出来て退職後何年かまで良く出掛けました。中でも「いの平」という居酒屋は生涯忘れることのできない楽しいお店でした。飲み仲間はとてもいい人ばかりで、男性のほとんどは私の詩吟の教室に入ってくれたりしました。ママは私たちより10歳くらい若かったのですが、手稲の老人大学のOBとして、皆様の世話もしてくれて飲み仲間の階層も嫌味がなく、独り手酌でも楽しめるいい店だったのですが、突然動脈瘤破裂でなくなり、そこから飲みに出歩くことはやめました。でも、「いの平」の思い出は酒の楽しさです。私は詩吟の教室を多い時は5教室持っていました。そして年に一度お客様をお招きして交歓吟詠会というものを開催してきました。その流れの中で、二次会をあるスナックを借り切って何年かやったことがあります。私の所属の流派の幹部の先生ほとんどと、岩見沢から毎年来てくれていた仲間も含め20数名の二次会をやったりしました。一昨年で終わりにしました。もう二次会を楽しむのには歳を取り過ぎてしまったのです。交歓吟詠もここで終止譜を打ちました。
 
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