3月18日にアップした「眉を上げなさい」
3月21日の「子から選ばれた親」はもともと
1本のエッセイとして書いたものだった。
これを2本に分けて別々にアップしたのだが、
平成7年に89歳で亡くなった母を語るには
やはり元に戻すべきだろうと思う。
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小学生になったばかりの頃ではなかったか。
真夏の昼下がり、遊び疲れ倒れるように畳に寝そべった僕の傍らに座った母は、
うちわで風を送りながらこう言った。
「子どもはね、親を選んで生まれてくるのだそうよ。
あなたは私を選んでくれたんだね。ありがとう」
うっすらと目を開けると、母のやさしげな顔がじっと見つめていた。すると、
「ほれ、ほれ。眉が下がっているよ。それじゃ、男前が台なしじゃない。
指に唾をつけ、それで上げなさい」
なんだか怒っているように続けた。
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亡くなってからもう25年経つ。
どのような人だったか、容易には思い出せなくなってしまっているのに、
なぜかこの場面だけは身に染みついたように消えることがなく、
鮮明に覚えている。
その母は今、マリア像(我が家は代々のクリスチャン)の横にいて、
含み笑いしているような柔和で、やさし気な顔をして写っている。
だから今でも母に会おうと思えば、いつでも会え、
言葉を交わすことができるのだ。
軽い脳梗塞から始まり、最後の5年ほどは病院暮らしだった。
当初は体にさほどのダメージは受けていなかった。
だが、どうしたはずみだったのか院内で転倒し、
大腿骨を骨折してしまったのである。
年寄りが足腰を骨折すると、それが引き金となって
寝たきりになるとよく言われるが、その通りであった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/85/764ab2e35154b9bafad17fd6cd503ffb.jpg)
母を見舞ったある日。その日はちょうど昼食時だった。
歩けないのでそのままベッド上で食事をしようとしている。
母の側に寄り、ベッドの端に少しだけ尻を乗せた。
おかゆみたいな流動食、それをスプーンで母の口に運んでやった。
すると、看護師がそれを見とがめ「やめてください」と言うのである。
「なぜ?」と語気を強めた。ささやかな孝行を邪魔された思いだった。
「手助けすると、もう自分では食べようとしなくなりますよ」……
母の手を取り、そっとスプーンを握らせた。
おそらく脳梗塞のせいだったと思うのだが、認知症みたいな症状も出てきた。
病室に入り顔を見合わせると「遠くからよく来たね」と言う。
僕が住む福岡から母のいる長崎まで、高速道路を利用しておよそ2時間の行程。
それを分かって「遠くから……」と言ってくれたのだと安心したら、
それもわずかの間。
その後は誰と話しているのか、話がまったく通じなくなった。
たまらず「ちょっとトイレへ」と言って病室を出た途端、
涙がすーっと頬を濡らした。
病室に戻ると、母の人差し指が額の方へすっと伸びてくる。
でも途中で力をなくし、指は届かぬままポトリと……。
「もう少しお母さんを見舞ってあげたらいいのに……」
妻はしばしばそう促す。
だが、「うん、そうだな」の生返事ばかりだった。
「お袋の状況について、担当の先生が説明したいそうだ。
お前もこっちへ来て、一緒に聞いてくれないか」
長崎の長兄からの電話だった。
着くのを待っていたように、説明が始まった。
見せられた母の頭部のレントゲン写真。右半分が真っ黒だった。
「そんな切ないものは見せてほしくない」心中そう叫んでみても、
母がどういう状況にあるかそれだけで分かる。
そして、医師は感情を殺したように、
「1年後かもしれないし、明日かも……」と告げたのである。
医師が冷淡だとは思わないが、その口調に心はすーっと冷えていった。
悲しみは1週間後のことだった。
母の人差し指が伸びてきて、
「ほれ、眉が下がっているよ。ぎゅっと上げなさい」——子供の頃から始まった、
このおまじないみたいな母との掛け合いは、
独り立ちして家を出るまで、いや今でもなお続けている。
今日もそうだ。
髭を剃ろうと鏡を覗き込んだ途端、母がすーっと出てきて
「眉を上げなさい」と言い、人差し指を伸ばしてきた。
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鏡に映したわが顔をしげしげと見つめてみると、
確かに長く伸びた眉が2、3本あり、それらがたらりと垂れている。
シワ、シミに加えて目尻が下がり、おまけに眉が垂れてくると
人相はやっぱり老人そのものである。
小さい頃は、母に言われるまま指を湿らせ横に引くと、
眉は一文字に近くはなった。
だが今はもう喜寿、77歳なのだ。あの頃の垂れ方とは違う。
同じようにやってみても、そうはいかない。
それでも母はしつこい。「ほれ、ほれ」と人差し指を伸ばしてくるのだ。
仕方なく指先を舌で湿らせ、眉を横にきっと引いた。