前から気になっていたのですが、あれは「日銀の見解(あるいは予想)」ではなくて、日銀がアンケートした企業の「景気に対する気持ち」なんですよね。とすると、短観を良くするためには、景気そのものを良くするよりも社長を全員楽観的な性格の人にすることが早道ということに。
【ただいま読書中】
『心とは何か』アリストテレス 著、 桑子敏雄 訳、 講談社学術文庫、1999年、800円(税別)
プシューケー(プシケー)についての論考です。本書では「心」と訳されていますが、魂とか精神でも間違いではないはず。
先人の業績についてまとめたところは読み応えがあります。ただしここはあくまで「アリストテレスの解釈」です。読んでいて「あれ?」と思うところもあります。たとえば、プラトンの「魂の三部分説」を軽視している点など、お師匠の思想なのにそれでいいのか、と思います。私はエンペドクレスの「心はすべての元素からなる(だからこそ、すべての元素を認識できる)」説に惹かれます。心は単独で存在しているのではなくて、コミュニケーションをすることで存在できる、ということになりますから。ただアリストテレスは「心の内に骨や人間がなければ、骨や人間を認知できない、ということになる(それは不可能である)」と切って捨てます。それはエンペドクレスの即物的な解釈だなあ、と私は呟きます。
しかし、だらだらと読みにくい文章だと思っていたら、注に「文章に冠詞をつけただけで、その内容を名詞化できるのがギリシア語の特性」とあって、私は膝を打ちました。なるほど。これだとある概念の説明そのものがその概念の名称になるわけで、新しい概念を“発明”するためには便利な言葉です。古代ギリシアで哲学が発達したのには、言葉の要素も大きかったのでしょう。
「心とは、存在するすべてのもの」と定義づけ、アリストテレスはまず感覚、次に思惟について述べます。なぜなら存在するものとは感覚されるものと思惟されるものから成り立っているからです。感覚で特にアリストテレスが重要視するのは「触覚」です。
ここで私は「なるほど」です。アリストテレスの「四性説」(世界は、乾・湿/熱・冷、の4つの元素の組み合わせで構成される)はきわめて触覚的です。つまりアリストテレスは世界を触覚を通して認識していたのです。そのことに本人は自覚的なようですが、ただそこで「なぜ自分が触覚を選択したか」を深く掘り下げることよりも「なぜ触覚が他の感覚に対して優位か」を述べることに夢中になってしまいます。ともかく、アリストテレスが「人は感覚(触覚)を通して世界を認識する」「認識の“装置”が心」と考えている基本は分かりました。当然のように「唯識(の触覚バージョン)」を私は連想しますが、著者が「味覚も触覚の一部」と述べているのを見て、もうちょっと不真面目に『地球はプレイン・ヨーグルト』(梶尾 真治)や『僕がなめたいのは、君っ!』(桜 こう)なども思い出してしまいました。アリストテレスを読みながらにやにやしている私って、やっぱり、変?
【ただいま読書中】
『心とは何か』アリストテレス 著、 桑子敏雄 訳、 講談社学術文庫、1999年、800円(税別)
プシューケー(プシケー)についての論考です。本書では「心」と訳されていますが、魂とか精神でも間違いではないはず。
先人の業績についてまとめたところは読み応えがあります。ただしここはあくまで「アリストテレスの解釈」です。読んでいて「あれ?」と思うところもあります。たとえば、プラトンの「魂の三部分説」を軽視している点など、お師匠の思想なのにそれでいいのか、と思います。私はエンペドクレスの「心はすべての元素からなる(だからこそ、すべての元素を認識できる)」説に惹かれます。心は単独で存在しているのではなくて、コミュニケーションをすることで存在できる、ということになりますから。ただアリストテレスは「心の内に骨や人間がなければ、骨や人間を認知できない、ということになる(それは不可能である)」と切って捨てます。それはエンペドクレスの即物的な解釈だなあ、と私は呟きます。
しかし、だらだらと読みにくい文章だと思っていたら、注に「文章に冠詞をつけただけで、その内容を名詞化できるのがギリシア語の特性」とあって、私は膝を打ちました。なるほど。これだとある概念の説明そのものがその概念の名称になるわけで、新しい概念を“発明”するためには便利な言葉です。古代ギリシアで哲学が発達したのには、言葉の要素も大きかったのでしょう。
「心とは、存在するすべてのもの」と定義づけ、アリストテレスはまず感覚、次に思惟について述べます。なぜなら存在するものとは感覚されるものと思惟されるものから成り立っているからです。感覚で特にアリストテレスが重要視するのは「触覚」です。
ここで私は「なるほど」です。アリストテレスの「四性説」(世界は、乾・湿/熱・冷、の4つの元素の組み合わせで構成される)はきわめて触覚的です。つまりアリストテレスは世界を触覚を通して認識していたのです。そのことに本人は自覚的なようですが、ただそこで「なぜ自分が触覚を選択したか」を深く掘り下げることよりも「なぜ触覚が他の感覚に対して優位か」を述べることに夢中になってしまいます。ともかく、アリストテレスが「人は感覚(触覚)を通して世界を認識する」「認識の“装置”が心」と考えている基本は分かりました。当然のように「唯識(の触覚バージョン)」を私は連想しますが、著者が「味覚も触覚の一部」と述べているのを見て、もうちょっと不真面目に『地球はプレイン・ヨーグルト』(梶尾 真治)や『僕がなめたいのは、君っ!』(桜 こう)なども思い出してしまいました。アリストテレスを読みながらにやにやしている私って、やっぱり、変?