先日読んだ『電子書籍の衝撃』には「すべての作品が対等な存在として読者の前に現われる」とありました。ジャンルも評判も関係なく、「自分にとって好ましいかどうか」だけで評価される「本」の一覧表が読者の目の前に検索で現われる、ということです。
ただ、いくら電子化が進んだとしても「古典」というジャンルは残ると私は考えます。それも、「絶対的な古典」(出版年代が古い)と「相対的な古典」(自分が出会った順番が古い)とが。時代がうつり変わることで作品を「古典」とするのと同様に、読者が成長することである本を「(自分にとっての大切な)古典」とするプロセスが働くはずだと私は考えます。
で、今日の読書日記は絶対的な古典、明日は相対的な古典が登場する予定です。
【ただいま読書中】『饗宴』プラトーン 著、 森進一 訳、 新潮文庫、1968年(87年29刷)、240円
高名な詩人アガトーンの招待を受けて饗宴におもむくソークラテースから同行の誘いを受けたアリストデーモスが、のちにアポロドーロスに語った話を、アポロドーロスが友人に語る、というややこしい入れ子構造をした話です。おそらくプラトンがソクラテスについて少しでも客観的に語るための仕掛けでしょう。
酒宴の後、集まった人たちは「愛の神エロースを賛美する即興の演説」を次々述べることにします。とっても知的な宴会です。最初の演者はパイドロス。エロースは両親を持たず最も古い神で最も誉れを持つ神である、と。アリストデーモスはその後の二三人の話は忘れていますが、パウサニアースの話は覚えていました。こちらは変化球で来ます(前の人と同じ話ではうけないから後の者ほど大変になるのです)。エロースと対で語られるアプロディーテーは実は二人いるから、エロースも二人いるはず。地上的な愛の神と天上的な愛の神とが。地上的なエロースは、魂よりは肉欲に走るが天上的なエロースはもっと気高い。そして、都市国家における愛に関する習わしは、この「地上的」と「天上的」とを分別する試みである、と。そしてパウサニアースによって少年愛が正当化されます(当時の少年愛にも、肉欲の愛と気高い愛とがあった、というのが共通認識だったのでしょうか)。
医師のエリュクシマコスは、肉体に調和をもたらすのは医術、愛に調和をもたらすのは音楽である、と主張します。そこに、しゃっくりの発作のために順番を飛ばされていたアリストパネースが参加。彼は、人類にはかつて「第三の性」があったと主張します。両性具有者(完璧な円筒形の胴体、手足は4本ずつ、顔や陰部は2つ)です。しかしゼウスがこの両性具有者を真っ二つに切断して男と女に分離してしまったため、男女は元の姿に戻りたいとお互いを求め合うのです。ここでも少年愛が登場して、ややこしい論が展開されます。
さて、残るはアガトーンとソークラテース。まずはアガトーンが語り始めます。エロースこそが万物の調和の根源である、と。見事な語り口に満場の拍手喝采が起こり、さて残るはソークラテースただ一人。ソークラテースは途方に暮れたふりをします。エロースに関して、賛美は語り尽くされてしまった、と。ならば自分にできることは……「真実を語る」こと。さて、本書の後半戦の始まりです。
まずソークラテースは二者択一の論理を駆使してアガトーンをぎゅうぎゅうと追いつめます。その上でこんどは部分否定(第三の道)を導入して人びとに「新しい世界」を展開して見せます。単純な二者択一の世界に生きていた人が初めて本書を読んだときには、目から鱗が何枚も落ちる思いをしたことでしょう。「死すべきもの」と「不死のもの」でさえもが“二者択一”ではありません。その中間の形態があるのです。何かをこの世に残す、という形が。そこで人は(末代まで語り伝えられる)名誉を得ようとしたり、もっと単純に子孫を残そうとします。それは死すべきものが不死を“愛”した結果なのです。しかし、もっと別の道がある、とソークラテースは示します。美のイデアそのものを求める道です。それこそが「プラトニック・ラブ」。
そこへぐでんぐでんに酔ったアルキビアデースが登場、ソークラテースを賛美(あるいは愛の告白を)し始めます。なんだか唐突な話の展開ですが、私はここをプラトン自身のソクラテスへの愛の告白、と読みました。あの世に行ってしまった人への告白ですから、イデアへの想いを語ることと同種、という感覚だったのかもしれません。
宴会で席に上座と下座があることとか、二人が一つの席に身を横たえるとか、古代ギリシアに関するトリビア的な知識も豊富です。哲学ではなくてそういった方面の興味で読んでも面白い本でした。
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ただ、いくら電子化が進んだとしても「古典」というジャンルは残ると私は考えます。それも、「絶対的な古典」(出版年代が古い)と「相対的な古典」(自分が出会った順番が古い)とが。時代がうつり変わることで作品を「古典」とするのと同様に、読者が成長することである本を「(自分にとっての大切な)古典」とするプロセスが働くはずだと私は考えます。
で、今日の読書日記は絶対的な古典、明日は相対的な古典が登場する予定です。
【ただいま読書中】『饗宴』プラトーン 著、 森進一 訳、 新潮文庫、1968年(87年29刷)、240円
高名な詩人アガトーンの招待を受けて饗宴におもむくソークラテースから同行の誘いを受けたアリストデーモスが、のちにアポロドーロスに語った話を、アポロドーロスが友人に語る、というややこしい入れ子構造をした話です。おそらくプラトンがソクラテスについて少しでも客観的に語るための仕掛けでしょう。
酒宴の後、集まった人たちは「愛の神エロースを賛美する即興の演説」を次々述べることにします。とっても知的な宴会です。最初の演者はパイドロス。エロースは両親を持たず最も古い神で最も誉れを持つ神である、と。アリストデーモスはその後の二三人の話は忘れていますが、パウサニアースの話は覚えていました。こちらは変化球で来ます(前の人と同じ話ではうけないから後の者ほど大変になるのです)。エロースと対で語られるアプロディーテーは実は二人いるから、エロースも二人いるはず。地上的な愛の神と天上的な愛の神とが。地上的なエロースは、魂よりは肉欲に走るが天上的なエロースはもっと気高い。そして、都市国家における愛に関する習わしは、この「地上的」と「天上的」とを分別する試みである、と。そしてパウサニアースによって少年愛が正当化されます(当時の少年愛にも、肉欲の愛と気高い愛とがあった、というのが共通認識だったのでしょうか)。
医師のエリュクシマコスは、肉体に調和をもたらすのは医術、愛に調和をもたらすのは音楽である、と主張します。そこに、しゃっくりの発作のために順番を飛ばされていたアリストパネースが参加。彼は、人類にはかつて「第三の性」があったと主張します。両性具有者(完璧な円筒形の胴体、手足は4本ずつ、顔や陰部は2つ)です。しかしゼウスがこの両性具有者を真っ二つに切断して男と女に分離してしまったため、男女は元の姿に戻りたいとお互いを求め合うのです。ここでも少年愛が登場して、ややこしい論が展開されます。
さて、残るはアガトーンとソークラテース。まずはアガトーンが語り始めます。エロースこそが万物の調和の根源である、と。見事な語り口に満場の拍手喝采が起こり、さて残るはソークラテースただ一人。ソークラテースは途方に暮れたふりをします。エロースに関して、賛美は語り尽くされてしまった、と。ならば自分にできることは……「真実を語る」こと。さて、本書の後半戦の始まりです。
まずソークラテースは二者択一の論理を駆使してアガトーンをぎゅうぎゅうと追いつめます。その上でこんどは部分否定(第三の道)を導入して人びとに「新しい世界」を展開して見せます。単純な二者択一の世界に生きていた人が初めて本書を読んだときには、目から鱗が何枚も落ちる思いをしたことでしょう。「死すべきもの」と「不死のもの」でさえもが“二者択一”ではありません。その中間の形態があるのです。何かをこの世に残す、という形が。そこで人は(末代まで語り伝えられる)名誉を得ようとしたり、もっと単純に子孫を残そうとします。それは死すべきものが不死を“愛”した結果なのです。しかし、もっと別の道がある、とソークラテースは示します。美のイデアそのものを求める道です。それこそが「プラトニック・ラブ」。
そこへぐでんぐでんに酔ったアルキビアデースが登場、ソークラテースを賛美(あるいは愛の告白を)し始めます。なんだか唐突な話の展開ですが、私はここをプラトン自身のソクラテスへの愛の告白、と読みました。あの世に行ってしまった人への告白ですから、イデアへの想いを語ることと同種、という感覚だったのかもしれません。
宴会で席に上座と下座があることとか、二人が一つの席に身を横たえるとか、古代ギリシアに関するトリビア的な知識も豊富です。哲学ではなくてそういった方面の興味で読んでも面白い本でした。
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