今年は野菜が高騰して、野菜中心のわが家では困っていますが、では農家がほくほくかと言えばそうではないですよね。不作なのですからトータルの収入は単価に比例して伸びてはいないはず。ところが豊作の時には値崩れして豊作貧乏です。結局農家はいつも貧乏くじ?
【ただいま読書中】『ごまかし勉強(上)学力低下を助長するシステム』藤澤伸介 著、 新曜社、2002年、1800円(税別)
日本人の「学力低下」に関して「受験制度」が“悪役”として取り上げられることが多い(だから制度改革に血道を上げる)のですが、著者は「ごまかし勉強(手抜き、間に合わせ、一時しのぎ)」こそが“主犯”ではないか、と主張します。ただ、独りよがりの信念の主張ではなくて、著者の職業(心理学者で、子どものカウンセリングをやっている)が反映されて、根拠と分析、そして主張が科学的に配置されるようになっています。ですから著者は読者に要求します。批判的に読むことと、難しいことばはせめて辞書を引くことを。
「学力低下」についてのデータを示した後、認知心理学の研究成果から「学習の意義」が検討されます。ところが困ったことに「学力とは何か」の定義がありません。そこで本書では「文部科学省が定めた教育課程の目標(得た知識・技能等が生活で活かされる/問題解決能力をつける/自力で新領域を学習できるようになる)を達成する過程」を「学習」と定義して話を進めます。
学習には「機構」があります。そのトップに位置するのは「学習観」。ところがこれが人によって千差万別で、優劣があります。次は「学習動機」。内発的動機づけと外発的動機づけに分けられますが、実はその区分は曖昧です。「学習行動」については省略されます。次の「メタ認知」が重要です。自分の情報処理活動をモニターしたりコントロールする機能ですが、これが不十分だと学習はうまく行きません。そして「学習方略」。各人が試行錯誤で獲得する“作戦”です。これらの要素が相互に関係し合って「学習の機構」が形成されています。それが好循環している状態を著者は「正統派の学習」と呼びます。
一度話は過去に戻ります。60~70年代の中学生の勉強法と90年代の比較です。大きな違いは「学習の主体」が、学習者本人ではなくなっていったこと。このへんは著者のノスタルジーもはいっているのかなとも思えますが、学習に関する“まわりの環境”がどんどん整備されたことは間違いないでしょう。ともかく「何がテストに出るか分からないので、自分が工夫する」→「何が出るかはわかっているし、暗記材料もあらかじめ揃っている」の変化が生じています。高校受験も試験範囲が制限され受験人数は減少して受験準備は“楽”になっています。しかし中学生の“苦痛(学習に対する嫌悪感)”は増加していました。
1990年代に、学習に躓きやすい子供たちの共通した学習観として「結果主義」「暗記主義」「物量主義(学習時間や練習量を重視)」が指摘されました。著者はそれに「学習範囲の限定」「代用主義(他人のカードなどを利用する)」を追加しています。テストに出ないところは最初から切り捨て、テストで良い点を取ることだけを目的とした学習観です。とうぜん、勉強後の深化作業は行なわれません。バラバラの知識はバラバラのまましばらく経つと消滅します。
ここで「ごまかし」を著者は定義します。「目標が達成されたかどうかについて、すべてが点検されない限界があるときに、点検箇所のみ基準を合格するように処理し、点検者が点検できない、またはしない箇所については、目標達成行動をとらないか、またはいい加減に行なうこと」。そして、教育現場で、生徒だけではなくて“教育者”からもこのごまかし教育が奨励されていることが学力低下の主因だ、と著者はしているわけです。もちろんその行動に“利”があればよいのですが、問題は「ごまかし勉強」そのものがあまりにつまらないため、子供の学習意欲が減退することです。子供の学習態度の経年変化のグラフが載っていますが、「ごまかし学習」の割合と同時に「家庭学習をしない」割合が増加しています。だったらどうしたらいいのか。
ということで、下巻「ほんものの学力を求めて」に続きます。
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【ただいま読書中】『ごまかし勉強(上)学力低下を助長するシステム』藤澤伸介 著、 新曜社、2002年、1800円(税別)
日本人の「学力低下」に関して「受験制度」が“悪役”として取り上げられることが多い(だから制度改革に血道を上げる)のですが、著者は「ごまかし勉強(手抜き、間に合わせ、一時しのぎ)」こそが“主犯”ではないか、と主張します。ただ、独りよがりの信念の主張ではなくて、著者の職業(心理学者で、子どものカウンセリングをやっている)が反映されて、根拠と分析、そして主張が科学的に配置されるようになっています。ですから著者は読者に要求します。批判的に読むことと、難しいことばはせめて辞書を引くことを。
「学力低下」についてのデータを示した後、認知心理学の研究成果から「学習の意義」が検討されます。ところが困ったことに「学力とは何か」の定義がありません。そこで本書では「文部科学省が定めた教育課程の目標(得た知識・技能等が生活で活かされる/問題解決能力をつける/自力で新領域を学習できるようになる)を達成する過程」を「学習」と定義して話を進めます。
学習には「機構」があります。そのトップに位置するのは「学習観」。ところがこれが人によって千差万別で、優劣があります。次は「学習動機」。内発的動機づけと外発的動機づけに分けられますが、実はその区分は曖昧です。「学習行動」については省略されます。次の「メタ認知」が重要です。自分の情報処理活動をモニターしたりコントロールする機能ですが、これが不十分だと学習はうまく行きません。そして「学習方略」。各人が試行錯誤で獲得する“作戦”です。これらの要素が相互に関係し合って「学習の機構」が形成されています。それが好循環している状態を著者は「正統派の学習」と呼びます。
一度話は過去に戻ります。60~70年代の中学生の勉強法と90年代の比較です。大きな違いは「学習の主体」が、学習者本人ではなくなっていったこと。このへんは著者のノスタルジーもはいっているのかなとも思えますが、学習に関する“まわりの環境”がどんどん整備されたことは間違いないでしょう。ともかく「何がテストに出るか分からないので、自分が工夫する」→「何が出るかはわかっているし、暗記材料もあらかじめ揃っている」の変化が生じています。高校受験も試験範囲が制限され受験人数は減少して受験準備は“楽”になっています。しかし中学生の“苦痛(学習に対する嫌悪感)”は増加していました。
1990年代に、学習に躓きやすい子供たちの共通した学習観として「結果主義」「暗記主義」「物量主義(学習時間や練習量を重視)」が指摘されました。著者はそれに「学習範囲の限定」「代用主義(他人のカードなどを利用する)」を追加しています。テストに出ないところは最初から切り捨て、テストで良い点を取ることだけを目的とした学習観です。とうぜん、勉強後の深化作業は行なわれません。バラバラの知識はバラバラのまましばらく経つと消滅します。
ここで「ごまかし」を著者は定義します。「目標が達成されたかどうかについて、すべてが点検されない限界があるときに、点検箇所のみ基準を合格するように処理し、点検者が点検できない、またはしない箇所については、目標達成行動をとらないか、またはいい加減に行なうこと」。そして、教育現場で、生徒だけではなくて“教育者”からもこのごまかし教育が奨励されていることが学力低下の主因だ、と著者はしているわけです。もちろんその行動に“利”があればよいのですが、問題は「ごまかし勉強」そのものがあまりにつまらないため、子供の学習意欲が減退することです。子供の学習態度の経年変化のグラフが載っていますが、「ごまかし学習」の割合と同時に「家庭学習をしない」割合が増加しています。だったらどうしたらいいのか。
ということで、下巻「ほんものの学力を求めて」に続きます。
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