殺人事件で捕まって「騒がれたので殺した」「抵抗されたので殺した」と言う人は、自分が何をしても相手は騒がない・抵抗しない、という前提に基づいてコトに及んだ、ということなのでしょうか。
【ただいま読書中】『わたしは“無”』E・H・ラッセル 著、 伊藤哲 訳、 創元推理文庫、1975年、260円
目次:「どこかで声が……」「Uターン」「忘却の椅子」「場違いな存在」「ディア・デビル」「わたしは“無”」
著者は序文で宣言します。「何の報いもないままに終わる災厄の物語」「触手を持ち、皿のような目を持った怪物が人類をおびやかす、のとは正反対の物語」「主要登場人物の性格がプロットに優先する小説」などを収めているから「いくら飽くことのない読者でもおそらく満足されるに違いない」と。
自信たっぷりの宣言です。しかも著者が活動した時期にはまだ「SF」は「ScienceFiction」だったはずなのに「思索的なフィクションと言うべき」とまで言っています。実際に本書の短編を読んでいると、明らかにしっかり「SF」なのに、「主流文学の匂い」も立ち上ります。なにより、ちっとも古くない。ある設定にある人物を配置したらこう考えこう行動するだろう、ということが、きわめて説得力豊かに描写されています。ときには「人物(人間、地球人)」ではない場合もありますが。そして、最後の一文でのドンデン。あるいは、昇華。SFの強み(「異世界」にわれわれの「常識」を置くことで、その虚構性や限界を明確にすることが可能になる)をここまで生かした著者は、数いるSF作家の中でもトップクラスに位置すると私には思えます。
新しい古いに無関係に「良い作品」を気持ちよく読みたい人には、本書は一読の価値がある作品集です。