(N)泊(N+1)日
ホテルや旅館に泊まる場合「一泊分」の料金は払いますが「二日分」は払いません。連泊したら2をかけての「二泊四日」ではなくて「二泊三日」の「二泊分」の料金となりますがやはり「三日分」は払いません。なんだか計算が合わないような気がします。
【ただいま読書中】『ハリウッド検視ファイル ──トーマス野口の遺言』山田敏弘 著、 新潮社、2013年、1500円(税別)
ロサンゼルス地区検視局でマイケル・ジャクソンの検死解剖がおこなわれるシーンで本書は始まります。
アメリカの検視局は、解剖をするだけではなくて、死体の発見現場の捜査も行います。警察は、死体は直接は扱いません。その捜査権は検視局にあるのです。検視官は、死亡診断書の作成・法廷での証言なども行いますし、事件性がない場合には遺族への死体の引き渡しも行います。
検死制度が生まれたのは1194年イングランドです。プランタジネット朝のリチャード一世は十字軍遠征で捕えられ、身代金を払うために死体にまで税金をかけました。その税金を扱い不審死が殺人か自殺かなどを探る役人が「コロナー(検視官)」です。この制度はアメリカにも持ち込まれ、1912年にマサチューセッツ州で医者をコロナーと定める法律が成立しました。これが現代のアメリカ検視官制度の始まりです。
1963年トーマス野口が登場し、検視官の認知度が高まります。野口がモデルのドラマ「ドクター刑事クインシー」によってメディカル・イグザミナーやコロナーがマスコミで取り上げられるようになり、90年代には「Xファイル」「CSI」がヒットします。
野口は病理専門医の資格を持ちアメリカの大学の助教授にもなっていました。それがロサンゼルス検視局で一番下っ端の助手から検死官のキャリアをスタートさせたのです。当然実力はピカイチ。だから、62年にマリリン・モンローが死んだとき、検視局長がその解剖を命じたのは一番下っ端の野口でした。死因はすぐに特定できました。睡眠薬の過剰摂取。血液分析で致死量を超える睡眠薬が検出されたのです。しかし、自殺か他殺か事故かは分かりません。そこで世界で初めての「心理解剖」が行われました。関係者から広く聞き取り調査をして、生前のストレスなどについて解析をするのです。それによってマリリン・モンローには「境界性の被害妄想人格」という診断がついていたこと、自殺未遂の既往があること、彼女の人生が行き詰まっていたこと、がわかります。こうして検視ファイルは「自殺」で閉じられましたが、「陰謀説」が浮上して野口はそれに巻き込まれることになります。赤狩り、ケネディ兄弟、FBIによるマリリン・モンローの監視、マフィア……当時の「アメリカ」がその「陰謀説」には書き込まれています。
野口は1927年福岡で生まれました。医学生として終戦を迎えた野口は、横須賀のアメリカの海軍病院の図書室に出入りして、アメリカへのあこがれを膨らませます。インターンをしながらアメリカ各地の病院と直接交渉、ついにカリフォルニアのオレンジ・カウンティ総合病院のインターンの地位をゲットします。52年のことでした。英語の壁、医学の違い、病院システムの違い、肺結核の罹患などを乗り越えてアメリカの医師免許を取得し、臨床と病理の二本立てで野口は仕事をします(日本でも医学と法学の両方を勉強していたことを見ると、人の倍の人生を生きるタイプの人のようです)。
野口は40歳でロサンゼルス地区検視局の局長になります。しかしそれは新たな戦いの始まりでした。事件との戦いだけではなくて、強い人種差別との戦いもあったのです。まずは大事件が。ロバート・ケネディの銃撃です。実はJFKの時に、死体がワシントンにすぐに運ばれてしまい捜査がめちゃくちゃになった、という“前例"がありました。これは「検視は現地で」の原則に抵触する事態だったのです。そこで野口は、慎重に(本来は不要のはずの)根回しを行い、病院に収容されたロバート・ケネディが死亡した場合にはロサンゼルスで検死解剖をすることの承諾を取り付けます。この事件がすんでから、野口は「日本人(日系人)差別」の対象として非難の嵐にさらされることになります。いやあ、アメリカの負の面がみごとに噴出しています。
マンソン・ファミリーによるシャロン・テートらへの殺人、ジャニス・ジョプリンの死(麻薬の売人がふだんの10倍量のヘロインを売った結果です。ちなみに彼女と同じ日に同じ売人から購入した8人が死亡しているそうです)……有名人のことについ注目をしてしまいますが、野口の仕事の本領は、日常的な無名人の死にあるでしょう。そこでどのくらいきちんとした仕事をするか、それが「プロの腕の見せ所」のはずですから。
昔だったら「快男児が渡米して世界を変えた」という表現になるかもしれません。ともかく、なんともすごい日本人がいたものだ、と思います。同時に、この人が日本にとどまっていたらここまで“大きな仕事"ができただろうか、とも。こういった人を受け入れてともかく仕事をさせたアメリカはやはり“すごい国"だったのではないかな。