古事記では死んだ人が行くあの世は「黄泉の国」です。仏教(浄土教)でのあの世は「地獄」と「極楽」です。では、「黄泉がえり」の黄泉は、地獄なのでしょうか、それとも極楽? お盆に「御先祖様が帰ってくる」のはどこから? もしも「地獄」からだったら、そんなに簡単に出してもらえるとは思えません。「極楽」だったら、わざわざそこを脱出して里帰りをする意味がわかりません(というか、本当に成仏していたら「この世」への未練や執着はもうないはずです。そんなものがあったらそれは仏教的には大変まずいことのはず)。
日本人にとっての「あの世」って、一体どんなものなんでしょうねえ。
【ただいま読書中】『日本人の地獄と極楽』五来重 著、 吉川弘文館、2013年、2100円(税別)
日本人の「他界」には、山中他界・海中他界、天上他界・地下他界があります。竜宮城は海中他界です。ところが「平家物語」では竜宮を「海の底の地獄」と表現しているところがあります。本書では、天上他界は極楽・地下他界は地獄、とまずは簡単にまとめられていますが、伊弉冉尊が死後に行った黄泉の国や素戔嗚尊が行った根の国は「地獄」ではないですよね。
日本の山には、「賽の河原」や「地獄谷」が多くあります。つまり日本人にとって「山中他界」と「地獄」は大変身近なものでした。修験道では地獄は実在するものでした。山でその地獄を体験しその体験に耐えることができたものは即身成仏してそのまま浄土に至るのです。つまり「山岳修行」は、「山=地獄」で苦しい修行をすることで極楽浄土へ行くことができる、という「地獄」が魂の通過儀礼のプロセスのような扱いです。日本人の精神の根底には先祖崇拝がありますが、「先祖が地獄に落ちたまま」というのは耐えられませんから「通過するプロセス」と捉えようとしているのかもしれません。
仏教(浄土教)では「地獄」は「極楽」とセットです。ところが地獄については饒舌に語られますが、極楽の描写はそれほどでもありませんでした。さらに興味深いのは、日本には「地獄巡り」と「地獄破り」があることです。地獄破りで有名なのは狂言の「朝比奈」ですが、地獄に落ちた朝比奈は閻魔大王と鬼たちをやっつけて自力で極楽に上ってしまいます。ドラゴンボールZですか? 地獄破りが初めて文献に登場するのは鎌倉時代の「吾妻鏡」ですが、ということはそれ以前から民衆の間ではそれが言われていたのでしょう。
著者は「インテリとしての僧の仏教理解」と「庶民の仏教誤解」とを区別しています。そして「誤解」には「日本人の原始的な神の観念や他界観念」が強く作用しています。つまり、日本人が昔から持っているあの世観に浄土教の地獄と極楽が重ね合わされて理解(誤解)され受容されたのです。著者はそこで「僧の苦労」を思います。「庶民の論理」をいかにすくい取るか、良心的な僧はそこで苦労をしていたはずだ、と。
著者が危惧するのは「現代日本」です。心の中に「地獄・極楽」あるいはそれに類する世界観を持たない人は、どのように生きて死ぬのだろうか、と。私自身、自分が死すべき存在であることを(知識ではなくて)実感するようになったのはわりと最近のことですから、ちょっと考え込んでしまいますね。