一番大切なのは「消費税を8%から10%に上げるか上げないか、上げる場合に軽減税率を導入するかどうか」ではなくて「消費税を10%に上げても大丈夫なくらい、国民の生活と日本の経済活動が安定したかどうかの判断」の方では? 消費税の議論では、本当に大切なことから論点がずらされているように、私には見えます。
【ただいま読書中】『捕虜が働くとき ──第一次世界大戦・総力戦の狭間で』大津留厚 著、 人文書院、2013年、1600円(税別)
第一次世界大戦では「国民戦争」が戦われ、「国家総動員」がおこなわれました。つまり、それまでは「通常の労働者」として扱われていなかった婦女子や老人や未成年者も労働力として扱われるようになったのですが、「敵の捕虜」も同じく「労働者」に組み込まれることになりました。これは1907年の「ハーグ陸戦条約」ですでに許されている行為でした。ハーグ陸戦条約は1929年に改定されてジュネーブ条約になりますが、日本はそれを批准しませんでした。条約では「相互性」が謳われていました(敵の捕虜を「尋常な労働」につけることができる=自分の兵士が捕虜になったら働かされる)。しかし日本兵は捕虜にはならないのですから、この条約は意味がないのです。したがって日本軍の捕虜になった兵士には「尋常な労働」ではなくて「異常な労働」しか道は残されていませんでした。では「捕虜の尋常な労働」とはどんなものか。それを本書では扱います。
第一次世界大戦のヨーロッパでは800万~900万人の捕虜が生じたそうです。ドイツの西部戦線は塹壕戦で膠着していましたが、東部戦線は戦線の移動が活発だったため、こちらでは捕虜が大量に生じました。オーストリア=ハンガリー帝国は緒戦の敗退で大量の兵士を失いましたが、大量の捕虜を抱えることになったロシアにとってもこれは大きな負担でした。最終的には200万人を越えるのですから。つまり「200万の物語」がロシアの捕虜収容所にはあるのです。ロシアは広大で、ヨーロッパロシアからシベリアまで広く捕虜を分散させる余地はありました。この時の経験が第二次世界大戦での日本軍捕虜のシベリア強制労働に役立った、ということでしょうか。
オーストリア=ハンガリーの方も、ロシア兵の捕虜を20万以上抱え込むことになりました。これはオーストリア=ハンガリーにも大きな負担でした。蚤・蝨まみれで赤痢やチフスが蔓延する1万4千人の収容所に医師は二人だけ、なんて話が登場します。収容所を建築する労働力も不足しており、帝国は捕虜に自分たちの収容所を建築させることにします。労働には賃金が支払われ、さらには民間の農場などへの“貸し出し”もおこなわれました。ただ、陸軍省はそれにいい顔をしませんでした。捕虜“活用”には、メリット(労働力の獲得)よりもデメリット(警備上の問題)の方が大きいと考えたのです。
明けて15年、敗走を続けたオーストリア=ハンガリー軍はドイツの支援を受けて反撃に出ます。ロシア軍は自国の領土にまで敗走しますが、この戦闘でオーストリア=ハンガリー軍はロシアに囚われていた自分の捕虜を大量に解放できました。ところが面白いのは、「捕虜の時に労働をした対価をロシアから受け取っていない」としてそれを自国の政府に請求した(元)捕虜がいたことです。「捕虜の労働に対価」は当然の権利だった、ということでしょう。そして、あまりの労働力不足のため、オーストリア=ハンガリーでも捕虜を“活用”することにします。しかし、民家に分宿させる体制では、警備が不十分となり、逃亡が生じます。また、地域住民との「交際」(特に性病の蔓延)が問題となります。
日本にはドイツ軍捕虜が四千数百名いました。はじめは「短期間預かれば良い」と軽く考えていた日本軍部ですが、世界大戦が長期化するにつれて「捕虜の能力(持っている技能)を生かすこと」を考え始めます。日本には6箇所の収容所が設けられましたが、その中で最も「捕虜の雇用」が盛んだったのは名古屋でした。たとえば旭鍍金工場や敷島製粉工場で、彼らの特殊技能は生かされました。兵庫県青野原の収容所では、捕虜が豚を飼いソーセージなどを作っていました。中には、戦後になってもドイツに帰還せずにそのまま店を出した元捕虜もいました。この時には日本には“余裕”があったから、捕虜も日本に残る気になったのでしょう。このとき日本も「グローバル化」をして「国際的な相互性」を採用していればよかったのにね。