大臣も自分の身の丈に合った発言しかできない、ということなのでしょう。
【ただいま読書中】『世界史のなかの蒙古襲来 ──モンゴルから見た高麗と日本』宮脇淳子 著、 扶桑社、2019年、1400円(税別)
チンギス・ハーンを「蒼き狼」とも言いますが、実はこれは“誤訳"だそうです。もとの「ボルテ・チノ」(モンゴル語)の「ボルテ」は動物の毛色では「斑点のある」で、それを漢語では「蒼色」と訳しましたがこれには「濃い緑色」と「毛が胡麻塩の状態」の2つの意味がありました。それを日本語にしたとき「蒼き」としたから「ごま塩状態」が抜けてしまったのです。ちなみに、チンギス・ハーンの妻は「惨白(なまじろ)き牝鹿」と表現されますが、これもモンゴル語では「ゴアイ(黄毛の女性形)・マラル」ですがそれが漢語では「惨白」になり、日本では「白」と捉えられるようになっています。つまり「蒼き狼」は「日本国内限定」だったのです。残念だなあ。イメージ的にはとても素晴らしいのに。
「モンゴル」は部族名ですが、そこに属する人間がすべて血縁関係にあるわけではありませんでした。「血」を言うなら、匈奴、鮮卑、柔然、突厥、契丹などの人も混じっていたはずですが、チンギス・ハーンの「モンゴル」が勢力を伸ばすと彼らは皆「自分もモンゴルだ」と言うようになりました。そして「モンゴル」はそれらを平然と受け入れていました。また、モンゴル帝国が勢力を拡張することを喜ぶ商人(たとえばイラン系のソグド人(イスラム教徒の商人))の意志も、そこには存在していました。チンギス・ハーンの死後、モンゴル帝国は大きく4つのウルスに分裂しました。「元朝」「黄金のオルド」「チャガタイ・ハーン国」「イル・ハーン国」です。
ここで話が変わります。朝鮮半島の「三国時代」です。そういえば私は歴史で「任那日本府」や「好太王碑」について習いましたが、最近の学校では教えていないそうですね。ともかく、三国時代を終わらせて朝鮮を統一したのが新羅。隋は遼東の高句麗遠征に失敗、唐も高句麗に手を焼きましたが、新羅と手を組んで高句麗を挟み撃ち、ついでのように百済も滅ぼします。百済は日本に援軍を求め、その結果が白村江の戦いです。
日本は危機感を覚えます。そこで、難波京を内陸の近江に移します。国号を「日本」とし「天皇」という称号も使い始めます。朝鮮半島から大量の難民が日本に流入しますが、それらをすべて受け入れ、新羅とは敵対関係を続けます。918年に高麗が建国。高句麗の子孫だ、という主張からこの国名だそうです。
13世紀初め、モンゴルが金に侵入し始めます。その時逃げた契丹人が高麗に侵入して江東城に籠城します。モンゴル軍は契丹人を追って江東城を攻めますが、そのとき高麗軍もそれに協力しました。以後モンゴルは高麗に貢ぎ物を要求しますが、チンギス・ハーンの死後、征服のために高麗侵入を繰り返しました。半世紀にわたって6度の侵入があり、高麗はついに降伏しました。
1266年、フビライ・ハーンは高麗に国書を二通出します。一通は日本宛のもの、そして高麗宛のものは「日本に詔書を届けろ」という命令でした。しかし高麗は、あの手この手でフビライ・ハーンに逆らいます。もしフビライ軍が日本に侵攻すると、高麗もそれに協力させられるのは見えていますから。フビライ・ハーンは結局日本に6回も詔書を出しています。鎌倉幕府の執権北条時宗は、詔書に対しては無視(無反応)を貫き、その間に西国の守護たちにいざという時の動員計画を立てさせます。
フビライ・ハーンは南宋をずっと攻めていましたが、ではなぜ日本も? 「日本が南宋に輸出している硫黄が火薬の原料だったから」という説があるそうです。たしかに日宋貿易は南宋になってからも続けられていましたが、硫黄ってそんなに貴重品だったのかな?
高麗は内乱が続いて疲弊します。日本では二月騒動(クーデター未遂)が起きます。そんなとき、ついにフビライ・ハーンの命令で軍勢が出港します。元軍15000、高麗軍8000、船の操縦関係者が6700、総勢3万弱の軍隊です。元帥はヒンドゥという人ですが、正体は謎です。元では高位の家来は「列伝」に必ず記載されているのに、そこに名前がありません。元のエリートではないそんな人が総大将になったのは、「元の軍」とは言ってもその中身が各民族ごたまぜで、エリートには使いにくい軍勢だったからではないか、が著者の推測です。で、第一次侵攻は失敗。『元史』日本伝には「官軍不整(官軍、ととのわず)」「矢尽(矢、尽きる)」と撤退理由が記録されています。どうも「神風のおかげ」ではなかったようです。
南宋が元に降伏、フビライ・ハーンはこんどは南宋の軍も使って日本を討とうと考え、高麗と南宋に戦艦建造命令を出します。そのため、第二次日本遠征軍は「東路軍(元軍と高麗軍)」「江南軍(南宋軍)」の二軍となりました。指揮系統がさらに複雑になっています。また、江南軍は農具も積み込んでいたので、フビライ・ハーンは騒乱の素になりやすい南宋兵を日本に屯田兵として追放しようとしていたのではないか、という見方もあるそうです。しかし戦闘は日本側有利。さらに台風がやってきて、侵略軍は死傷者と捕虜を多数出して撤退します。
興味深いのは、元の軍隊が多民族構成になっていることだけではなくて、フビライ・ハーンが「敗軍の将」を罰していないことです。もちろん怒りは爆発させていますが、殺したりの処罰は一切していません。これだと「次は頑張ろう」という気になるでしょうね。
著者は「元寇」は「蒙古襲来」ではない、と言います。なぜなら「モンゴル軍」はやって来ていないから。
「元寇」への対応から、「日本」という概念が広まった、と著者は言います。ローカルな海賊行為にはその土地の人が対応すれば良いでしょうが、「元寇」に対しては「日本」が対応しなければならない、と思うようになったわけです。
フビライ・ハーンは第三次日本遠征を企画しますが、高麗は疲弊して何も絞り出せず、中国南部やヴェトナムで反乱が続き(さらに元軍はヴェトナムでは敗れ)、モンゴル帝国内での内紛も続き、とうとう断念します。日本にとっては幸いなことでした。それから長い長い「(外国に侵略されない)平和」を享受できたのですから。ただそのために平和ボケしてしまって、海外情勢を正しく認識する癖がなくなってしまったのは、困ったものですが。