【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

いいくに

2019-11-13 07:37:34 | Weblog

 鎌倉幕府は「良い国作ろう1192年」と私は学校で習いましたが、今では違うそうです。学校を卒業してから勝手に教科書を買えて欲しくないなあ。子供たちに「間違ってるぞ」と言われてしまうではないですか。

【ただいま読書中】『平家と六波羅幕府』高橋昌明 著、 東京大学出版会、2013年、5200円(税別)

 「平家」と言っても一枚岩ではありません。たとえば清盛の妻時子の兄である平時忠は、貴族たちからは(清盛とは別系統の)「高倉天皇の外戚」とみられていました。本書で著者は、2つの平氏が「高倉上皇・安徳天皇の高倉院政」を作りあげ、支えた、と述べています。
 福原遷都は、まるで清盛の気まぐれのように物語では描かれていますが、学者の見方は違います。奈良以前から天武系の天皇が続いていましたが、桓武天皇は天智系でした。だから彼は長岡京(そして平安京)へと遷都して「これまでとは違うのだよ」を日本中に宣言したわけです。そして、清盛から見たらやっと誕生した言仁親王(のちの安徳天皇)は「平氏系天皇」と言えるわけで、だったら遷都するのは当然、なのです。しかし、貴族や武士や庶民の遷都反対論は根強く、福原の土地は狭く、遷都作業はなかなか進みませんでした。著者は「高倉天皇の健康不安があり、予定を数年早めて発動させたのではないか」と推測しています。後白河院の強硬な反対がある中、高倉天皇から“合法的"に譲位されることが何より重要になった、ということでしょう。しかし、源氏が各地で挙兵、安徳天皇は数箇月福原に滞在しただけで、京に帰ることになります。
 「武家の政権」は「鎌倉幕府から」が日本の学界の定説となっています。平家はたしかに武士だが、貴族化したために失敗したのだ、と。ところがこの定説の根拠は(学問的には)ありません。そもそも平家の政治に関する史料があまりに少ないのです。そこで著者は定説に頼らず、「六波羅で行われていたことは、実質的に『幕府』と呼んでよいのではないか」という仮説を立てます。もちろん「幕府」という「ことば」には、古代中国まで遡る由来がありますが、ことばの定義ごっこではなくてその中身(日本での使われ方)に注目したら、この仮説は成立する、という主張です。
 私は学界の“外"の素人ですが、平安期の武士がいたからこそ鎌倉の武士が存在できたのだし、平家が政権を握っていたからこそ後白河法皇や貴族たちがあれだけ平家の悪口を言っていたのだ、と思うので、著者の主張はあり得る、と思っています。ちなみに「征夷大将軍」は“必須"ではありません(源頼朝自身、途中でこの職を降りています)。戦前の日本政府で、陸軍省と海軍省は、形としては天皇の“下"に位置していましたが、実際には日本(政府)を牛耳っていました。平安期の平家政権もそれと似ていて「形としては天皇の下だけれど」の存在だった、と言えないかな?
 実は平家政権と鎌倉政権には共通点がけっこうあります。たとえば諸国御家人に各地方の軍事を担当させていたり、京都から離れていたこと(清盛は福原にこもっていました)。もちろん相違点も多々ありますが、著者が一番大きな違いとするのは「恩賞」のあり方です。平安期の武士への恩賞は、国家からのもので地位や名誉が主体でしたが、鎌倉期には将軍からの「所領」となります。「一所懸命」は鎌倉期からのもの、ということです。ということで、本格的な武家政権(幕府)は鎌倉からで良さそうですが、実はその萌芽は平安時代にすでにあった、ということです。頼朝が鎌倉を離れなかったのは、源氏の本拠地であることが大きな理由でしょうが、もう一つ、なにをやっても貴族が文句を言いにわざわざやって来る心配がなかったから、でしょうね。福原でさえ「遠い」と貴族は文句たらたらだったのですから。