「生徒のなれの果て」と言ったら、ほとんどすべての社会人がそうですが、多くの教師の問題点は「学校を卒業したら学校に就職した」つまり「学校以外の社会をろくに知らない」点でしょう。
【ただいま読書中】『めっしほうこう ──学校の働き方改革を通して未来の教育をひらく』藤川伸治 著、 明石書店、2019年、1600円(税別)
教師の過酷な現場を改善するために、AI教師(人型のロボット、AIを搭載)が学校現場に導入され始めた時代の物語です。
もちろん「人間の教師」と「AI教師」は同じものではありません。ただ、AI教師の利点は様々あります。たとえば、疲弊しない、(プログラミングの範囲内で)生徒の人格否定などをしない、記録がきちんと残る、嘘をつかない。もしかしたら、人格的に駄目駄目な人間教師よりはAI教師の方が「自分が傷つかない」「他人を傷つけない」点で“良い教育"ができるかもしれません。
授業を受ける子供たちは、まず「アイ先生」に夢中になります。授業も面白い。でも、以前の熱心な人間教師の授業を覚えている子供は、どことなく物足りなさを感じます。情愛の欠如、かな?
そうそう、「AI教師」が登場するからといって、本書はSFではないです。現在の教師が送らなければならない非人間的な生活をベースとした「現在の日本(の一歩だけ先)の小説」です。
しかしまあ、ここに紹介される「激務」と「保護者からのクレーム」の数々、その非常識さと“圧"の強さはすごいものです。これらがすべて「ノンフィクション」だったら、頭がよい(クールでスマートな)人は最初から教師の道を選択しないでしょうね。子供や教育に何らかの熱い思いを持っている人と“でもしか"の人しか入ってこなくなるのではないかしら。そしていずれにしても、クレームと激務の攻撃によって疲弊していって、耐えられる人だけが生き残るサバイバルに。いつからか「学校はブラック企業」と言われるようになっていますが、それは嘘や大げさではなかったようです。
私自身、教師の知人がいますが、夜明け前に出勤して夜中に帰宅、休日はクラブの遠征に同行、という生活をしていることを外から見て知っています。どんなクレームを普段受けているかは教えてもらっていませんが。
昔「ゆとり教育」という言葉がありましたね。私はこれを復活させたら良いと考えています。ただし「生徒」ではなくて「教師」のゆとり、に。ゆとりの無い教師に良い教育はできません。ノルマを果たすだけで精一杯です。だけどゆとりがあれば、その中から良い教師が出現する可能性が出てきます。もちろん確率は100%ではないでしょう(駄目な教師は、忙しければ忙しい駄目教師で、ゆとりがあれば暇な駄目教師ですから)。だけど多忙によって心とゆとりを無くしている良い教師(あるいは良い教師になれる素質を持った人)は、ゆとりがあれば暇を生徒のために使う良い教師になれるはず(繰り返しますが、この確率は100%ではありません。だけどその確率は0よりははるかにマシなはず。こんな話の時「暇になったら碌なことをしないやつが必ず出現する」と主張してそもそもの話を全否定しようとする人間がよく出現するものですが、「そういったやつが必ず出現する」こと(個別例、部分の最適)と「全体としての利益」(全体としての最適)をきちんと比較する必要があります。そういったことができない人が、教師になったら駄目教師になるのでしょうけれど、広い視野での比較ができるようにすることも教育の目的の一つであるはずです)。