今日も駅から職場の間、朝夕とも慈悲の瞑想。家族や子どもたちへの瞑想である。私にはやはり、
私の親しい人々の願うことが叶えられますように
私の親しい人々に悟りの光があらわれますように。
という二つが連続していることが、ことのほか重い意味をもっているように感じられる。「願い」と「悟りの光」がつながっている。少なくと全く無関係であるはずがない。だから「願い」は、利己的な願いであるはずがない。もちろん個々の人間は利己的な願いをもっているだろう。しかし、慈悲の瞑想でいう「願い」は、その人の表面的な意識を超えた深いところに横たわる「願い」であるはずだ。
慈悲の瞑想を続けていると、その人の「願い」と私の「願い」とが響き合う共通の場が自覚されるような気がする。家族が自覚しているいないにかかわらず、家族と私の間に生み出される共通の場。たとえわずかにせよ、その場がお互いに影響を与え合うのだ。互いにこの世に投げ出されて生きているということは、そういうことなのだろう。
私の親しい人々の願うことが叶えられますように
私の親しい人々に悟りの光があらわれますように。
という二つが連続していることが、ことのほか重い意味をもっているように感じられる。「願い」と「悟りの光」がつながっている。少なくと全く無関係であるはずがない。だから「願い」は、利己的な願いであるはずがない。もちろん個々の人間は利己的な願いをもっているだろう。しかし、慈悲の瞑想でいう「願い」は、その人の表面的な意識を超えた深いところに横たわる「願い」であるはずだ。
慈悲の瞑想を続けていると、その人の「願い」と私の「願い」とが響き合う共通の場が自覚されるような気がする。家族が自覚しているいないにかかわらず、家族と私の間に生み出される共通の場。たとえわずかにせよ、その場がお互いに影響を与え合うのだ。互いにこの世に投げ出されて生きているということは、そういうことなのだろう。