限りあるいのちを生きていることの「意味」が、さらにずしりと胸に落ちるようになった。生きることにおいて何が大切なのかが、得心できるようになった。この1・2週間、そんな思いを強くしている。端的に言えばそれは「自我」において死ぬこと。そのように行為し、そのように生きることだ。他者との関係を、そのように生きることだ。
先週、「慈悲の瞑想」への意欲が衰えていたが、今日はまた行き帰りにずっと行った。その人を思い、その人をイメージしながら「慈悲の瞑想」を続ける。続けていると、その人の「限りあるいのち」が意識される。その人を、「限りあるいのち」という視点から見ている。
私と言う「限りあるいのち」が、たとえば家族の誰か、たとえば子どもという、もうひとつの「限りあるいのち」の生き方、その開花に、「慈悲の瞑想」を通じて、あるいは他の言動によって、どれほどにかかわっていくことができるのか。そこでもまた、私自身の「自我」の死が問われている。そのかかわりにおいて、どれだけ無私になれるか。