◆『グレース&グリッド(上・下)』ケン・ウィルバー(春秋社、1999年)
「ぼくは最後になってようやく、不平や不満を言わなくなった。ことに、彼女につかえるために五年もの間、自分の仕事を顧みられなかったことに対する不満を(‥‥)。そうした不満をぼくは完全に手放してしまったのだ。全然後悔などしていなかった。ただ、彼女の存在そのものと、彼女につかえることの、途方もない恵みに感謝していた。‥‥ぼくたちはシンプルかつ直接的な方法で互いを助け合い、互いの自己を交換しあった。だからこそ、自分や他者、「わたし」とか「わたしのもの」といった観念を超越した、永遠の〈スピリット〉をかいま見たのだった。」(P342-343)
ここでケンが体験したことに比べれば、あまりにも些細な体験かもしれないが、しかし何かしら通じるものを自分の中に感じる。千分の一、いや万分の一かもしれないが、しかしやはり同質だと感じる何かがある。私の場合は、「不平や不満」を感じることも多い。しかし、今の私にとって、家事をすることも原稿を書くことも、同様の意味をもっている。家事を厭う気持ちが、以前に比べるとはるかにすくなくなっている。
トレヤとケンの生き方を読んでいると、この限りあるいのちを限りあるいのちとちて自覚したうえで、それをどう生きるか、がもっとも大切だということ、一瞬一瞬その問いを自覚して生きることが大切だということが、強く心に迫って来る。
限りあるいのちと自覚した上で、そこで何を学ぶのか、何が大切なのかを問い、それを生きるとくこと。この問いの根源性を思い起こすために、私はこの本の最後の部分を何度も読み返していくことになるだろう。
「ぼくは最後になってようやく、不平や不満を言わなくなった。ことに、彼女につかえるために五年もの間、自分の仕事を顧みられなかったことに対する不満を(‥‥)。そうした不満をぼくは完全に手放してしまったのだ。全然後悔などしていなかった。ただ、彼女の存在そのものと、彼女につかえることの、途方もない恵みに感謝していた。‥‥ぼくたちはシンプルかつ直接的な方法で互いを助け合い、互いの自己を交換しあった。だからこそ、自分や他者、「わたし」とか「わたしのもの」といった観念を超越した、永遠の〈スピリット〉をかいま見たのだった。」(P342-343)
ここでケンが体験したことに比べれば、あまりにも些細な体験かもしれないが、しかし何かしら通じるものを自分の中に感じる。千分の一、いや万分の一かもしれないが、しかしやはり同質だと感じる何かがある。私の場合は、「不平や不満」を感じることも多い。しかし、今の私にとって、家事をすることも原稿を書くことも、同様の意味をもっている。家事を厭う気持ちが、以前に比べるとはるかにすくなくなっている。
トレヤとケンの生き方を読んでいると、この限りあるいのちを限りあるいのちとちて自覚したうえで、それをどう生きるか、がもっとも大切だということ、一瞬一瞬その問いを自覚して生きることが大切だということが、強く心に迫って来る。
限りあるいのちと自覚した上で、そこで何を学ぶのか、何が大切なのかを問い、それを生きるとくこと。この問いの根源性を思い起こすために、私はこの本の最後の部分を何度も読み返していくことになるだろう。