瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

結果への愛着を放棄する

2007年04月16日 | 瞑想日記
◆昨日書いた件に関しては、今日はそれほど心が反応していない。話題にした人物は、ちょっと気がまわらない程度で、悪意はないのだろう。結局、私の「自我」の問題なのである。

私のとるべき態度は、私自身にとっては「白鶴」のイメージである。「白鶴」は、私の中では自我に汚されない何かしら純粋な行為を象徴している。周囲の毀誉褒貶に囚われずなすべきことをひたすらなす。このケースで言えば、自分のプライドやエゴに左右されず、全体的な視点から最良と思われることを、ひたすら行うこと。あくまでも影で支える側に徹して彼を援助すること。彼がやりやすいようにやってもらい、必要があったらそっと手を差し伸べる。それで良いではないか。

本当に平静な気持ちでこのような態度に徹することができるかどうか分からないが、こうしていく以外にどのような道があるというのだろう。

◆マリアン・ウィリアムソンの『愛への帰還』を読んでいる。『奇跡の学習コース』をもとに、それをいかに日常生活の応用するかが語られる。『奇跡の学習コース』の言葉が随所に散りばめられている。

例によってすばやく何度か目を通す仕方で読んでいる。すでにいくつもの印象的な言葉に出会った。最近、私の心のなかに深く沁みこんできているあり方が、ここでも繰り返し語られている。そういう言葉に出会うと深く響いてくる。ひとつだけ抜き出そう。

「降伏の定義は、結果への愛着を放棄するということです。神に降伏する時、物事が外面的にどのような結果になるかに対する愛着を手放し、内面的どういうことが起きるかに対してもっと深い関心を持つようになります。」p78

降伏とは、最近使ってきた言葉で言えば、自我がすべてを失うことである。後半、「内面的にどういうことが起きるか」へ深い関心をもつようになるというところが印象的だ。この本を読んで、私が学ぶべきことが何度も確認されていく感じである。

『奇跡の学習コース』もまだ翻訳出版までは時間がかかるそうだが、直接英語で読んで見たくなった。
コメント
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