『愛への帰還』は、読みながらますます引かれていく。同時に、この本の元になっている『奇跡の学習コース』への関心も深くなっている。私が今、自分自身の深い部分で確認しつつあることを、この本はひとつの仕方で表現している。だから心の深い部分に沁みこんでくる。
『奇跡の学習コース』は、伝統的なキリスト教の用語を用いているが、その使い方はきわめて非伝統的であるという。それは、『愛への帰還』を読んでもよく分かる。神、愛、聖霊、光といった言葉が頻繁に使われる。しかし、そこに流れるのは大乗仏教的な精神に通ずるものである。「大乗仏教的」という限定的な言葉づかいをすることにも抵抗がある。ひとつの真実が、キリスト教的な言葉によって、深い層から語りかけてくるような印象を受ける。
たとえば「愛」という言葉。
「『奇跡の学習コース』は、愛だけが実在すると述べています。愛と対極をなすものは恐れであるが、すべてを包含するものには対極は存在しない。愛情をもって考える時、私たちは文字通り神と共同制作をしているのです。したがって、私たちが愛情をもって考えていない時には、愛だけが実在するのですから、実際には全然考えていないということになります。幻覚を体験しているにすぎません。それがこの世界の現実です。集団の幻覚です。そこでは恐れの方が愛よりも実在性が高いように見えます。恐れは幻想です。私たちの狂気、偏執狂、心配、心の傷といったものは、すべて文字通り想像の産物です。」p49
自我とそれにまつわる一切を失ったときに残る「何か」を愛といってもよい。一切を投げ出して降伏する覚悟ができたとき恐れはない。その「何か」、「空」、「愛」からすれば、一切は幻覚なのであろう。すべては滅びゆくのだから。「自我」が消滅するときに出現する実在を、『奇跡の学習コース』は、積極的に愛といっている。そのような言葉遣いによって同じひとつの真実の別の側面が浮き彫りにされるだろう。
『奇跡の学習コース』は、伝統的なキリスト教の用語を用いているが、その使い方はきわめて非伝統的であるという。それは、『愛への帰還』を読んでもよく分かる。神、愛、聖霊、光といった言葉が頻繁に使われる。しかし、そこに流れるのは大乗仏教的な精神に通ずるものである。「大乗仏教的」という限定的な言葉づかいをすることにも抵抗がある。ひとつの真実が、キリスト教的な言葉によって、深い層から語りかけてくるような印象を受ける。
たとえば「愛」という言葉。
「『奇跡の学習コース』は、愛だけが実在すると述べています。愛と対極をなすものは恐れであるが、すべてを包含するものには対極は存在しない。愛情をもって考える時、私たちは文字通り神と共同制作をしているのです。したがって、私たちが愛情をもって考えていない時には、愛だけが実在するのですから、実際には全然考えていないということになります。幻覚を体験しているにすぎません。それがこの世界の現実です。集団の幻覚です。そこでは恐れの方が愛よりも実在性が高いように見えます。恐れは幻想です。私たちの狂気、偏執狂、心配、心の傷といったものは、すべて文字通り想像の産物です。」p49
自我とそれにまつわる一切を失ったときに残る「何か」を愛といってもよい。一切を投げ出して降伏する覚悟ができたとき恐れはない。その「何か」、「空」、「愛」からすれば、一切は幻覚なのであろう。すべては滅びゆくのだから。「自我」が消滅するときに出現する実在を、『奇跡の学習コース』は、積極的に愛といっている。そのような言葉遣いによって同じひとつの真実の別の側面が浮き彫りにされるだろう。