瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

ゆる体操と野口整体

2005年09月20日 | 瞑想日記
◆ゆる体操と野口整体
エポケー:読書日誌の方に『「余分な力」を抜けば、人生が変わる!』高岡英夫著(三笠書房、2003年)のレビューを書いた。ゆる体操を一歩深め、著者のいうセンター(正中線)の重要性、その感覚の育て方としての統一棒によるトレーニングなどに触れている。

私自身、ゆる体操は毎日続けている。そのためか、あるいは週末断食のためか、肩こりが軽くなってきたようだ。パソコンに向かっていてちょっと眠くなったときに立ってゆる体操を行い、交感神経を軽く刺激すると効果的だ。床についてからの「寝ゆる」はもちろん毎日続けている。実は「統一棒」も購入した。しかし、これを用いたトレーニングはまだ行っていない。そのうちこり出すかも知れない。

ゆる体操に比べ、野口整体の方はご無沙汰してしまっている。朝日カルチャーセンターの5回の講座は、結局最初の2回いっただけで、その後は休んでしまった。いろいろな要因があるのだろうが、続けてやっていくまでには気持ちが動かなかった。また家で時間をとって行うほどには、やる気にならなかった。しかし、まだどこかで野口整体に引かれている。また復活があるかも知れない。

面白いのは、立ってゆる体操をやっている時に、軽い自発動に移行することがあることだ。たとえば上半身をゆらしているときに何かの刺激で肩を上下にゆるめるような動きが、半ば自動的に入ってきたり、腰を中心とした回転のスワイショウが入ってきたりする。

◆夕飯も玄米食へ
昨日の断食明け、復食のあとはまた食べすぎだった。腹を下すというほどのものではなかったが。次回は、昼に復食をせず、もう少し遅らせてみようかと思う。もうひとつ、これまでは夕食は白米だったが、これも玄米に変えようと思っている。幸い娘が玄米志向なので、二人でうまくやれそうだ。
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瞑想合宿レポート11(訂正)

2005年09月19日 | 瞑想合宿レポート
レポート11で、これが夢のメッセージではなかったかと「翌日になってから気づいた」と書いた。しかしメモを読み直して見ると、夢との関連に気づいたのは、その日、8日目の夜10時半ごろになっている。読者にとっては些細なことかも知れぬが、訂正したい。

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断食が意識を変える

2005年09月19日 | 瞑想日記
◆一日断食16回目
先週は土曜日が出勤だったので、日・月・火と三連休になる。一日断食は昨日おこなった。昨日はいつもより空腹感が少し強かったような気がする。金曜日・土曜日は職場で昼食が出て、間食もしたのでいつもより食べた量が多く、その影響があったかもしれない。昨日中に3回便通があり、復食日の今日も午前9時に便通があった。これで腸がだいぶすっきりした。今朝の体重は、57.0キロ、体脂肪率17。

昨日は朝、座禅、今朝も座禅。とりたたてよくはなかった。昨日歩行瞑想もランニングもしなかったが、今日は復食前に行う予定。今回は復食後の食べすぎに充分注意をしたい。サティをしっかり入れて。

最近の食事内容を少し書いておく。午前中は、水と柿の葉茶だけ。昼は、400g前後の野菜数種。ウェットタイプの胚芽玄米をナマで0.2合くらいか。その他、プルーン、とろろ昆布、かたくちいわしを適度に。時にコーンスープやココアを飲むことも。野菜ジュースは1・2杯。

夕食は普通に食べるのだが、9時前後と遅くなることが多く、その直前に間食してしまうことが多い。これがいちばんの問題だ。食べたくなったら強力なサティが必要だ。

◆断食が意識を変えている
エポケーの方に久保田展弘著『週末断食・空腹から見えてくる「空」の思想』(マガジンハウス、1998年)のレビューを書き、そこでも触れたが、週末一日断食は確実に私の意識を変えている。

まずは、私の求道の意識が刺激されるところがあるようだ。無明による食べすぎをコントロールしている意識。体にとって、命にとって害毒である余分な食(エポケーに書いた千日回峰行者の食事を読んでほしい)をコントロールしている意識。食べるという、命にとっていちばん基本的な部分で無明に支配されていた、今でもしばしば無明に支配さる、それがかなり自覚されてきた。合宿レポートに書いた「捨てていく道」というのは、無明に支配された食への欲望を捨てる、というところからも刺激されているような気がする。

からだの感覚への敏感さも増した。以前は、いつも腸に便がいかに多く詰まっていたかが、いまでははっきり分かる。からだに敏感になるということは、生きているということの原点に敏感になっているということにつながっている。
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談話室(掲示板)の再開

2005年09月18日 | サイト更新管理
突然だが、談話室(掲示板)を再開する。

現在の私の関心事である、次のようなテーマについて情報交換をしたいという気持ちが出てきた。

1)瞑想
2)瞑想と食事の関係
3)少食、断食、食養

しばらく様子を見ながら、そのつど期間とテーマをある程度限定して開くか、それとも完全廃止にするか、検討するつもりでいる。
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瞑想合宿レポート11

2005年09月18日 | 瞑想合宿レポート
◆小さな転換
昼食後すぐにまた座禅をした。家族から乖離していくことの淋しさが再びよみがえってきた。しかしその時、思考モードのなかではあったが、ちょっとした転換が起こった。私は、断食で贅肉を落としていくのと同様に、心にまとわりついた様々なものを瞑想によって落としていくだろう。内面において徹底的に捨てていく道を歩むだろう。

しかし、徹底的に捨てていく道は、身近な人間関係や社会関係においても開かれているではないか。「自我」の損得勘定に惑わされずに徹底的に家事や家族サービスに打ち込んでいくことは、そのまま徹底的に捨てていく道ではないか。「自我」の利害関心を超えたところで徹底的に職場の仕事に打ち込んでいくことは、そのまま捨てる道に通じているではないか‥‥。家に帰ったら徹底的に家族サービスをしよう。仕事をしよう。捨てていく道として。

そう思ったとき、家族との乖離の不安や淋しさが完全に消えていた。そしてサティが、苦もなく続きはじめた。眠気はまったくなく、透明な瞑想状態がつづいた。みごとに善心所モードに切り替わったのだろう。気がつくと、昼前にはあったメガネの錯覚が消えていた。

さらに、翌日になってから気づいた。これが、合宿の出発する日の明け方に見た夢のメッセージではなかったのかと。瞑想合宿への参加を遅らせてでも自分の使命を果たすという夢。内面に向かう道としての瞑想と外的な世界での奉仕、あるいはクーサラ。合宿に向かう中央線の電車のなかで感じていた、何かをやりのこしているような、こんなことをしていていいのかというような漠然とした不安。すべてが、ここにつながっていたのかもしれない。

結局、合宿前に見た夢に戻ってきたのだ。あるいは、夢の意味を深めるような形で今回の瞑想合宿全体が展開していたのか。
コメント (3)
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