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日常生活の中で思ったこと、感じたことを気の向くままに書き綴っています。

-GHQ焚書図書開封の刊行と新事実の発見-(GHQ焚書図書開封 第23回)

2017-02-28 21:25:58 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第23回
戦後、「出版の自由」と「言論の自由」こそ、自由と民主主義の最高の価値と日本人を洗脳している真っ最中に、新憲法に違反してGHQ主導のもと秘密裡に行われた「検閲」と「焚書」。
没収本の対象期間は、1928.1.1-1945.9.2に発行された本で、東京裁判の対象期間と一致する。没収は1946年からサンフランシスコ講和条約(1951年)締結頃まで続いたと言われている。
検閲は、民間検閲部隊(CCD)、プレス・映像・放送課(PPB)、調査課(RS)に米軍6名、日本人9~25人を配置し、組織的に行われた。
焚書リストは、RSが担当し、東大文学部、尾高邦雄(社会科学)、金子武蔵(人文科学)、牧野英一(委員長)、南原繁(戦後進歩派、後の東大総長)らによって作成された。
当時、日本に強力な軍事体制はあったが、軍国主義はなかった。
彼らによって、自分たちの歴史、思想、文学、軍事技術、産業報国は全て偽物で悪しき宣伝と決めつけられたのである。没収行為は、各県警の協力を得て、文部次官通達により秘密裡に行われた。
これによって、日本の行った大東亜戦争の正当性(戦争目的:アジアの植民地解放、人種差別撤廃)をことごとく抹殺し、連合国側の歴史観を日本人に教え、自虐敗戦史観の刷り込みにGHQは成功したのである。


-大川周明「米英東亜侵略史」を読む(ロンドン軍縮協定と日本の曲がり角)-(GHQ焚書図書開封 第22回)

2017-02-28 21:21:54 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第22回
 日露戦争で活躍した秋山 真之(あきやまさねゆき)も影響を受けたアルフレット・セイヤー・マハンの海上権力史論。
ハワイ、フィリピン、グアム、ウェーク、サモアと西へ西へと侵攻したアメリカは世界一流の侵略国家であった。
セオドール・ルーズベルトの時代から、支那(昭和9年時の支那は、人口4億、外国品購入額一人当たり日本の1/10)が投資利益が見込めるマーケットと読んでいたアメリカ。今日でも欧米が支那に対して寛大な対応をしている原因は、市場としての魅力がこの時代と変わっていないからである。
アメリカの進出のターゲットは満蒙であり、ここに支那大陸と相対する太平洋覇権をめぐる日米の確執ができた。
日露戦争で得た日本の利権を横取りしようとしたアメリカに憤懣やるかたない日本。
ハリマンの満鉄買収の陰謀にNOをつきつけた小村寿太郎。サンフランシスコにおける日本人排斥運動など嫌がらせの激化。
パナマ運河は、大西洋艦隊を太平洋に移動させ日本を攻撃するために開通させた。
チェコ軍を救出するために、シベリアに派兵(1917年)した日本に横車を押したアメリカ。
9か国条約(1922年)など次から次へと、日本憎しのアメリカはあらゆる場面で、日本の敵側に回る行動をとるようになった。
ロンドン軍縮会議(1930年)で幣原喜重郎が国民の軍拡感情を軽視し、対米弱腰外交をとった(スチムソンに屈した)ことが、後に国民の反発を買い軍部の暴走を許すことになった。(福田康夫総理は、憲法改正について、中国や韓国のお伺いを立てる必要があると発言していたが、これも弱腰外交のあらわれ)
スチムソンとF・ルーズベルトは、9か国条約、不戦条約違反を不法なる侵略行為とみなすことで意見が一致した。そして、支那蒋介石を支援することを決定した。(義勇軍フライングタイガースの派遣)
アメリカは東亜の門戸開放を要求したが、中南米の門戸開放は認めないという偽善を行っていたし、日本による東亜の秩序を認めなかった。このような状況で米英の衝突を避けることに努力することが賢明であったか?むしろ、これが、日米衝突になる運命であったとも言える。その意味で、司馬遼太郎の司馬史観は戦後パラダイムの中における思想にすぎない。

「弘安四年、蒙古の大軍が多々良浜辺に攻め寄せたとき、日本国民は北条時宗の号令の下、たちどころにこれを撃退しました。いまアメリカが太平洋の彼方より日本を脅威する時、東条内閣は断固膺懲(ようちょう こらしめること)を決意し、緒戦において開戦史上振古(しんこ おおむかしのこと)未曾有の勝利を得ました。敵、北より来たれば北条、東より来たれば東條、天意か偶然か、めでたきまわりあわせと存じます」これは昭和16年(1941年)12月14日~19日、思想家の大川周明がラジオ放送で「米英東亜侵略史」を講演したときのくくりの一部です。大川はペリー来航時、アメリカは反植民地であったが、帝国主義への転換し、日本をどんどん圧迫していった流れを国民に説明しました。これは本になりベストセラーになりましたから、当時、日本国民が大東亜戦争をどのように捉えていたかがよくわかります。引用元:ブログ「かって日本は美しかった」より

<参考>
プロイセン王国(ドイツ)の軍人にして、優れた軍学者・兵法家として知られる彼(か)のカール=フォン=クラウゼヴィッツは、死の翌年(1832年)に発表された著書『戦争論』の中で、斯(か)く述べています。即ち、戦争の勝敗は個々の戦闘にあるのでは無く、目的を果たしたか否かで決まる!と。その彼の言葉に従えば、アジア・太平洋に広がる欧米列強の植民地支配を打破し、「大東亜共栄圏」を建設する!とのスローガンの下(もと)、有色人種の雄として、欧米 ── 白人至上主義 ── に挑んだ日本は「戦闘」には敗れたものの、「目的」(植民地の解放と「大東亜共栄圏」の建設を果たした事で、結果的に、日本は大戦に「勝利」した。

参考文献:「米英東亜侵略史」大川周明  「大川周明の大アジア主義」関岡英之


-「バターン死の行進」直前の状況証言-(GHQ焚書図書開封 第21回)

2017-02-28 15:13:18 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第21回
 自虐史観の一橋大学出身森武麿氏は、フィリピンの日本統治時代は悪辣・非道の限りをつくしたと「アジア・太平洋戦争」に書いているが、アメリカ、スペイン統治時代はどうだったかについては一切触れていない。
前線はフィリピン、後方は米国の督戦兵であった(植民地では征服された民族が宗主国の兵として前線で戦わされる)。
バターン半島の戦いでは12,000名の米兵と64,000人のフィリピン兵が捕虜となった。これだけの兵がいて戦わず、白旗を上げた米兵に憤りを感じた日本兵。総司令官のマッカーサがオーストラリアに逃亡してしまったため、米兵の士気が低下したのか?
いつ捕虜から襲われるかも知れない不安を抱きながら一人の日本兵が200~300人の捕虜、難民を引率しなければならなかった異常な実態。
戦争を体験していない一橋大の森武麿教授は、GHQの洗脳政策に沿って、日本国のために命がけで戦った日本兵を貶めるために本を書いた。
自国の独立解放のため日本側についた他のアジア諸国と違い、アメリカ側についたフィリッピン兵の悲しい運命。アメリカ軍が救ってくれると信じて戦線に紛れ込んだ避難民の悲劇。
フィリッピンは占領した日本軍によって戦中(1943.10.14)に独立をした。戦後、アメリカはそれを(1946.7.4)追認したにすぎない。
マニベレスからサンフェルナンド間、たった88キロの行進中に起こった米兵2,300人の死亡。
お互い生きるか死ぬかの極限状態にある戦争中に、何の罪を問えるというのだろうか?

参考文献:「大東亜戦争陸軍報道班員手記」文化奉公会 「アジア・太平洋戦争」森武麿 「兵隊について」火野葦平