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大川周明-大東亜秩序の歴史的根拠2(GHQ焚書図書開封 第88回)

2017-09-27 05:32:29 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第88回
大川周明-大東亜秩序の歴史的根拠2
思想家で唯一A級戦犯で起訴され、東京裁判被告席で東條英機の頭を扇子で叩いた高い理想主義者の大川周明。
第一次世界大戦時、ANZACの艦隊をドイツ潜水艦から守るため南太平洋で活躍した日本艦隊。
第一次世界大戦時、地中海で連合国側の商船を守るため犠牲となった日本海軍駆逐艦の将兵が祀られたのマルタ島の慰霊碑。
日本が第一次世界大戦(1914-1918年)で多くの犠牲を伴う地上軍を送っていたら、戦後の欧米人の日本人に対する態度は変わっていたかもしれない。
アメリカが日本を懲らしめるために開かれたワシントン会議(1921-1922年)において山東省の特殊権益を奪われ、アメリカのイギリスへの圧力によって日英同盟が破棄され、軍備縮小を強要されたことなどの不満の蓄積に対する反撃が満州事変(1931年)であった。
さて、この時代に、日本は日露戦争での勝利がロシア革命の引き金になったことや、第一次世界大戦を引き起こす原因になっていたという世界史的意義を自覚していたのであろうか?佐藤信淵の唱えたアジア主義を忘れ、欧米側に歓心を買う方向へと向かっていたのではなかろうか?
ワシントン会議以降、英米寄りの国際秩序に忠実に従った日本政府は、英米から模範的世界市民と褒められた。
この時期、日本の有識者階級は、支那の排日運動に対し、根本的な解決を図らず、抽象的民族主義、感傷的平和主義に走り、アングロサクソンの優越性を認め、英米の下風に甘んじて日本の安全を保つという安易な思想を持った。
これが、日支間問題をこじらせ「排日」から「侮日」そして「抗日」運動に変わる原因ともなった。
南京陥落(1937年)後、戦えば、必ず日本に負け続ける蒋介石が7年間持ちこたえたのは蒋介石の背後にコミンテルンの協力、イギリス資本の協力、ユダヤ資本の協力があったためである。また南京の王政権よりも重慶の蒋政権のほうを支那の民衆が支持していたことという本質を日本が見誤っていたためである。
更に、欧米人に頭を下げるが、日本人にだけは頭を下げたくないという乗り越えられない支那の民族感情(白人崇拝感情と「東夷」として軽蔑していた日本が、アジアの指導者面をしていることに嫌悪感を持っていたこと)を理解せず、欧米に対抗する東亜新秩序を築こうとしたことには無理があったのである。(大川周明は、大東亜秩序建設は第二維新であるとし、佐藤信淵の大アジアを一つにするという大風呂敷を支持していたのである。)
参考文献:「大東亜秩序建設」大川周明