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-「大東亜戦争調査会」叢書4-(GHQ焚書図書開封 第104回)

2018-03-25 23:39:41 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第104回
-「大東亜戦争調査会」叢書4-
「米英の東亜制覇政策」第4章 米英は如何に対日策謀を逞うしたか
 ペリー提督は、単なる軍人だけでなく、学識、才幹をも有する人物であり、フィルモア大統領やウェブスター国務長官にも認められていた。来航に当たって、3万ドルに及ぶ海図、水路誌、各種文献を用意し、日本に関する政治、経済、産業、気象風土を歴史的に調べ上げ、周到な準備を怠らなかった。また、情報もれ防止の理由でシーボルトなどの学者、旅行家などの乗船は拒否した。ペリーの来航(1853年)は、表向きは、日本を開国させ、貿易を開く政治目的であったが、同時に日本侵略の意図をもって行われていた。従って、ペリー艦隊の根拠地にすることをねらって多くの港や湾を調査しており、海の深さなども測っていた。  
 日米修好通商条約(1858.7.29)は、アメリカのアジアに対する経済帝国主義の一環としての萌芽をあらわしたものであった。中国進出の足場として日本の開国を考えており、拒否された場合は、琉球国の軍事的占領をも厭わない覚悟であった。
 日清戦争(1894-95)当初、イギリスは、日本艦隊の動静などをスパイし、清に情報を提供するなど清の歓心を買う行動をした。日本が有利になってくると、今度は一転し、米、露、仏、独を誘って和平仲介に乗り出したが、米は拒否した。イギリスは単独で、朝鮮独立の保証と、日本への賠償金支払いで矛を収めさせようとしたが、日本が拒否すると、仏、独、露による三国干渉(1895.4.23)が始まる。イギリスは三国干渉に加盟せず日本に媚び、抜け目なく支那から租借地威海衛を確保した。日本は山東省を返還するという最悪の決断をさせられれた。
 日英同盟は、インド、朝鮮、満州に北方から南下するロシア対策と、アメリカの支那に対する門戸開放に対抗するには日本を利用することがイギリスの国益に沿うと考えて締結された(日本はイギリスのアジアにおける番犬の役割を担うことになった)。日英同盟は第二次改定(1905年~)までは双方の利害が一致したが、三次改定(1911年~1921年)から、アメリカの覇権増大に伴い、利害が一致しなくなっていった。
 アメリカは、軍事力を背景に、経済力で支那を支配下におく脱領土的侵略(金融的侵略、投資的侵略)を展開していった。当時、日本は、領土も資源も全て金融の支配下におくアメリカの考え方を理解できなかった。
参考文献:「米英の東亜制覇政策」「米英の東亜攪乱」「米国の世界侵略」「大東亜の建設」「米英挑戦の真相」大東亜戦争調査会

-「大東亜戦争調査会」叢書3-(GHQ焚書図書開封 第103回)

2018-03-25 20:21:36 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第103回
-大東亜戦争調査会叢書3-
「米英の東亜制覇政策」第3章 米英の侵略的文化工作
 米英、特に米国は、領土的、経済的侵略に立ち遅れたので、支那に伝道施設、教育施設、医療施設、文化施設をつくり侵略的文化工作に力を入れた。このことが、目前に、具体的な恩恵を施された人々の民心を把握することを容易にし、拝米、イギリス信者を生み出し、侮日、抗日の気分を高まらせることとなった。
アジア植民地における文化対策については、日本は遅れをとっていた。それは、仏教を研究するにはオランダ語の翻訳本から学び、インド学を学ぶには英語の翻訳本、インドネシアについて学ぶにはオランダ翻訳本から学ばなければならない状態であったからである。日本人が自らアジアに出向いて研究した文献は皆無であった。
英米は、支那から得た団匪賠償金(北辰事変の賠償金)を支那に対する慈善事業費と称して使った。
英米の対支工作には、①プロテスタントから始まった②最初慈善、奉仕的であったが、現地収入が得られるようになり、米国からの送金が不要になった③英米は大学、研究機関の教育に力をいれ、フランスは小学校教育に力をいれた④実利的な医療事業に着目し、重きを置いたという特徴がみられる。
アメリカは、キリスト教布教を主に、文化工作に熱意を示し、特に、医療・教育に資金の6~7割をつぎ込んだ。このことが、今日の米中の親密な関係につながっている。教育については、後に、キリスト教会が反日教育の温床になっていった。一方イギリスは、経済的、政治的、軍事的な対支工作を露骨に行った。
伝道施設数、教育施設数、医療施設数、文化施設数の多さがそれを示している。
これら欧米の文化的侵略に対して、敢然と戦ったのはアジアにおいて日本一国のみであった。そのことに同情し、理解してくれた国は、インド、西南アジアの国々、ビルマ、タイであったが、憎んで欧米の戦略にのせられた国は支那、韓国であった。
インドのイギリスに対する感情、ベトナムのフランスに対する感情、支那のアメリカに対する感情は、虐殺され、搾取された怨みと同時に欧米の文化に浴したことからくる尊敬の念ももちあわせた複雑なものである。これらの植民地の人々が宗主国の文化について詳しい知識を持ち、誇りをもっているという矛盾は日本人には到底理解できないものである。
 アメリカは、単純で幼稚であり、支那を4大文明の一つとしてみており、日本の文化は「武士道」とみている。
 欧米文明は近代日本のモデルであり、理想であり、基準であった。そんな欧米文明に立ち向かい、力の敗北でなく精神の敗北を喫したことは日本にとって致命的打撃であった。
 欧米の文明はヤーヌス(二面性「悪-善」、「正-邪」をもった)文明である。戦争に敗れた日本は二面性の内「正」の袋に入ってしまい、「正」の袋の外にある「邪」の部分をみることができなくなってしまった。
参考文献:「米英の東亜制覇政策」「米英の東亜攪乱」「米国の世界侵略」「大東亜の建設」「米英挑戦の真相」大東亜戦争調査会