俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

クロール

2008-08-26 19:05:52 | Weblog
 クロールは一番早い泳法なのでダイナミックな泳法と思われることが多いが、実はロスが最も少ない静かな泳法だ。
 人間をカヌーに見立てるような泳法で体幹部は殆ど動かさず、手足のみで推進力を得る。このことはオリンピックの自由形を見れば一目瞭然で一流選手の体は呆れるほど動かず左右にうねるだけだ。手足の動きは体の延長線上から殆どはみ出さないから水の抵抗が最も小さい。
 水中で大きな推進力を得ようとすれば同時に大きな抵抗が生まれる。バタフライは最も推進力の大きな泳法だが抵抗も最も大きいので体力を無茶苦茶に消耗する。
 このようにクロールはコンパクトな泳法なので場所をとらない。1コースで3人か4人が泳げる唯一の泳法だ。平泳ぎや背泳ならせいぜい2人、バタフライなら1人しか泳げない。狭い日本のプールにはクロールが向いている。

一体化

2008-08-26 18:53:03 | Weblog
 団体競技では「一体化」や「一丸となって」頑張ることが求められるがそんなことはすべきでない。むしろ「機能化(専門化)」すべきだと思う。
 野球の守備にその典型を見ることができる。いくらバッテリーが重要でも二番手の投手が捕手に回ることは殆ど無い。二番手の投手は控え投手となる。
 早く走ることや早い球を投げるといったことだけに頼る一元論的な価値観ではなくそれぞれのポジションへの適性という多元論的な価値観に基づいて選手は選ばれる。
 スポーツ以上に実社会は多元論の世界だ。誰が偉いかといった一元論ではなく、それぞれが何をできるかという多元論で成り立っている。
 集団として成果を残すという目標は共有して良い。しかしそれを実現するためには各自が自分の役割を果たすべきであって「同一化」や「一体化」をすべきではない。「一体化」するのは独裁者が大好きなマスゲームだけで充分だ。

加工

2008-08-26 18:41:40 | Weblog
 北京オリンピックの開会式での美少女の口パクや56の少数民族の多くに漢人が扮していたことが偽装として非難されている。しかしこのことの責任を総合プロデューサーの張氏に問うことはお門違いだ。もし責任を問うなら映画監督である張氏を総合プロデューサーに任命した共産党幹部が悪い。
 映画監督や小説家は「現実」を不完全なものと考える。「現実」は醜いから虚構によって物語は美しくなると考える。彼らは現実という素材を加工することによって「美」は生まれるという信念を持っている。言わばナマの素材を調理することによって料理は成立し得るという価値観を持っている。
 私もナマの米をそのまま食べたいとは思わない。米は炊いたほうが絶対に旨い。
 加工したほうが良いなら堂々とそう主張すれば良い。加工したものを加工していないように見せかけようとすることが悪い。
 美が皮膚1枚に頼っておりそれを剥がせば化け物になることは事実だ。しかしその事実を「皮膚は尊い」と考えるか「美は虚しい」と考えるかは各人の勝手だ。
 「人は死ぬ」という事実を「生は尊い」と考えるか「生は虚しい」と考えるかは各人が判定すれば良い。
 やってはならないことは事実と加工をゴチャマゼにしてプロパガンダとして使うことだ。