俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

冬の喫煙所

2008-12-16 13:50:32 | Weblog
 ある大学病院でのことだ。その病院は全館禁煙なので喫煙所は屋外にしかない。喫煙所には一般の外来患者の他に、パジャマの上にガウンやブルゾンを羽織った入院患者もいた。
 当時はまだ11月でそれほど寒くはなかったが今後寒い1・2月に、暖かい病室から寒い屋外に出される入院患者の肉体的負担は小さくない。
 喫煙という行為は多分有害だろう。しかし真冬に入院患者に屋外での喫煙を強いるということは喫煙以上に有害だろう。
 喫煙者が肩身の狭い思いをしていることにつけ込んで、入院患者を屋外へ追い出す行為は行き過ぎではないだろうか。喫煙者に対する処遇には傲慢さが感じられる。まるでニンジンが嫌いな子供に無理やりニンジンを食べさせたり、アッラーの神を信じない者を許さないイスラム原理主義者のようなやり方だ。自分達が正しいのだから正しいことに従わない者は許さないという姿勢には現代の「魔女狩り」を感じざるを得ない。
 もし喫煙者の寿命が禁煙者の寿命より短いなら、それは喫煙そのものの有害性以上に、喫煙者に対する虐待のほうが大きいように思えてならない。

宝くじ(2)

2008-12-16 13:37:39 | Weblog
 私は宝くじを買ったことがない。宝くじのような低配当率(50%)のギャンブルに参加しようと思わない。何しろ「多・空くじ」なのだから。
 当たっても幸せになれる訳ではない。一時騒がれた2億円長者殺害事件は特異な例ではない。ヨーロッパでは宝くじ長者が家にバリケードを築いて銃で武装したという話まである。
 宝くじで得られるのは正にアブク銭だ。アブク銭だから有象無象の連中がタカりに来る。
 宝くじの好きな人は頭が悪いとしか思えない。当選者の出た宝くじ売場には長い行列ができる。沢山の宝くじを売った売場で当選くじの出る確率が高くなるのは当たり前のことだ。しかしその売場で売る宝くじの当選率が高くなる訳ではない。こんな基礎的な確率論を理解できない人に宝くじを売りつけるのは痴呆症の人に訳の分からぬ金融商品を売るのと同じくらい非良心的なことではないだろうか。

思考の限界

2008-12-16 13:27:14 | Weblog
 思考力は無限だという考えがある。思考は一瞬のうちに世界の果てまで到達できる。何百億年の過去や未来、あるいは何兆光年の彼方まで思考は飛翔できるからだ。
 しかしこれは傲慢な考えだ。人間の思考は経験に基づく極めて狭い範囲にしか及ばない。言わば井の中の蛙のようなものだ。このことについてはカントが「純粋理性批判」で論証した。
 カントは①時間と空間②モナド③自由④必然的存在体、を挙げてこれらの可否を主張することが不可能であることを明らかにした。
 例えば時間については①始まりが無ければ現在に至り得ない②始まりがあるならそれ以前も想定可能、という2つの理屈を「無限を経験できない人間理性の妄想」として両者を否定した(「2律背反」)。
 理性は所詮、経験に基づいてしか思考できない。しかもその「経験」そのものが事実をありのままには捕らえない。知覚し得るように変形・矮小化してしか受け入れない。
 例えば月・太陽・星までの距離はそれぞれ大きく異なる。それにも関わらず同じ距離であるように見えるから「天球」となる。これは丁度、3つまでしか数えられない幼児にとって4つ以上が「沢山」になるように、理解できるレベルまでしか「経験」は受け入れない。理解を超えるものは理解可能な最大限のものへと矮小化されてしまう。従って経験不可能な無限や永遠を使って論証しようとする試みは必然的に矛盾に陥る。
 宗教家は無限や永遠を使って詭弁を弄する。こんな話に騙されてはならない。無限や永遠を使った話は高尚な話ではなく無意味な話なのだから。