俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

阿呆狙い

2011-10-11 15:39:17 | Weblog
 現代社会では阿呆を狙うことが最優先される。
 なぜ阿呆を狙うのか。阿呆は感化され易い。マスコミを使って情報操作をすればすぐに騙される。情報操作をするまでもない。同じ情報を繰り返して何度も流すだけで彼らはそれを鵜呑みにする。彼らは自ら考えるような面倒なことはせずに誰かが答を出してくれることを待っていて、答が提示されればそこに群がる。今年のファッションはこれだ、と言われれば猫も杓子もそれに飛び付く。
 第二に阿呆は数が多い。自ら考える人は少数派だ。考えるよりもテレビで言っていたことを鸚鵡返ししたほうが大外れしない。テレビの出演者はそれなりに社会的地位があるからお笑い芸人以外はそれなりの理屈を並べる。自分で考えるよりも意見をパクったほうが効率的だ。
 政治家も企業も阿呆を狙い撃ちにする。たとえ支離滅裂のマニュフェストであろうとも「政権交代」という一言だけで票を集めることができる。阿呆の票であろうとも1票であることに違いは無い。企業も阿呆に向けたテレビコマーシャルを流すだけで大きな利益が得られる。
 勿論、芸能界のお得意様も阿呆だ。登場回数が多いだけで人気が出て、人気があるということが更に人気を集める。このようにして阿呆狙いのビジネスは繁栄する。
 阿呆以外を狙ったら大半が失敗する。賢い人はその人独自の拘りを持っているからテレビCM程度では動かない。空気にも流されない。
 こうして社会は阿呆のためのものとなる。

ある

2011-10-11 15:20:01 | Weblog
 哲学を学ぼうとした物好きな人の多くは存在論に出会って辟易したことだろう。西洋哲学に存在論は欠かせない。最近は流行っていないが一時期最も注目されていた実存主義でさえ英語ではexistentialismであり「自覚存在主義」と訳されたこともある。
 西洋哲学が存在論に拘るのはbe動詞(ドイツ語ならsein、フランス語ならetre)のせいだ。`A is B"のisの意味を明らかにしないことには議論が成立しない。日本語では「ある」がそれに該当する。
 日本語で考えればすぐに分かることだが、「ある」は「がある」と「である」に大別できる。存在を表す「がある」と等号の役割を果たす「である」は大きく意味が異なる。西洋語には助詞が無いから「我思う故に我あり」と「吾輩は猫である」の「ある」はどちらも英語では`I am"になる。
 語学が堪能でなかったから私は洋書ではなく日本語訳で多くの哲学書を読んでいたので「存在とは何か」には余り関心を持たなかった。強いて言えば「他者の存在とは何か」という倫理的な問題だけに関心があったかも知れない。むしろ「である」の意味に多くの関心を向けた。パラドクスが大好きなのは多分そのせいだろう。
 哲学を学びたい人には存在論を無視することをお勧めする。大半はbe動詞によって欺かれた空虚な議論に過ぎない。


日本語の特性

2011-10-11 15:04:07 | Weblog
 日本語は論理的でないなどと言い出したのは一体誰だったのだろうか。日本語は論理的であり、非常に伝達力の優れた言語だ。日本語が非論理的と誤解され易いのは省略が多いからだろう。省略が多いのは文化が共有されているから、つまり国民の文化度が高いからだ。常識として共有されていることについてわざわざ論及する必要は無い。
 日本語は情緒的だ、とも批判される。この特性は欠点ではない。逆に情緒まで伝達できる優れた言語だとさえ言えよう。最も論理的な伝達ツールである数式を使えば情報は正確に伝わるが伝わるのは最も抽象的な数値だけだ。豊かな内容は伝えられない。ヨーロッパの言葉とは全く違った文法を持つ日本語には「てにをは」とも呼ばれる助詞があるので微妙なニュアンスまで伝えることが可能だ。「私は」と「私が」とを使い分けるだけで全然違った意味になるし、「がある」と「である」の違いは哲学的でさえある(この件については次の《画面上では前の》記事の「ある」参照)。こんな器用なことは英語などでは不可能だ。
 こんな便利な日本語を否定したがる人は日本語を使いこなせない人だろう。日本語の豊かさが分らないから煩雑なだけだと思い込んでいるのだろう。丁度パソコンを使えない人がパソコンを否定するようなものだ。