俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

少数者

2012-01-13 15:15:03 | Weblog
 3日付けの「不平等」に批判的なコメントがあった。敢えて反論はしないが、少しだけ補足しておきたい。私はあくまで少数者の立場から多数者優遇を承認しているのであって、多数者の立場から多数者エゴを主張している訳ではない。この二者は全然違うものだ。
 多数者と少数者は共存すべきであり、相互に否定し合うべきではない。以前に(2007年11月14日付)「左利き」という記事を書いたことがある。私本人は右利きだが、社会が余りにも右利き向けに作られていることに憤った。しかしそれでも多くの道具が右利き用に作られていることは許されるべきだろう。日本人の9割が右利きなのだから基本的な道具が右利き仕様になるのはやむを得ない。左利き用が少なくしかも割高であるのは左利きに対する差別だという主張には賛同できない。あくまで経済合理性に基づくものだ。確かに左利き用の道具は普通の店では入手困難だが、今ではネットで簡単に購入できる。
 一番駄目なのは右利きにも左利きにも使い勝手の悪い道具だ。これは男女兼用水着のようなものであり誰にとっても不便な物だ。勿論こんな馬鹿な商品を作る企業は無い。しかし社会制度はそうではない。多数者だけが優遇されたり、逆に一部の少数者が不当に厚遇されたり、あるいは誰にとっても好ましくない奇々怪々な仕組みであったりしている。このバランスを少数者の視点から見直したいということが私のスタンスだ。例えば利用者の多い駅には左利き用の改札口を設けるべきだろう。

経験と偏見

2012-01-13 15:01:40 | Weblog
 人は経験に基づいて考える。しかしそれは同時に個人の偏見でもある。個人の偏見と常識(=社会の偏見)が矛盾することはしばしば起こる。どちらが正しいかを決めることはほぼ不可能だから、私は「私にとってはどちらが正しいか」を基準にして考え行動する。
 「私にとっての真実」という言葉は奇妙に聞こえるかも知れない。真実とは普遍的なものと考える人のほうが多いだろう。しかし2+3=5とかニュートンの万有引力の法則のような客観的真実など私にとってはどうでも良いことだ。それは既に確定している。しかし、いかに生きるか、とか社会はどうあるべきかといった問題は客観的真実たり得ない。だからこそより重要だ。
 私は無神論者だ。神も来世も信じない。従って神頼みもしないし来世にも期待しない。しかし世界人口の圧倒的多数を占める有神論者を馬鹿にする気は無い。彼らはそれを正しいと信じているのだから、彼らが私の権利を侵害しない限り容認する。神社や寺や教会があっても一向に構わない。しかしその費用は信者が負担すべきであって税金などの公金は1円たりとも使われてはならない。従って国家神道などは絶対に認められない。
 圧倒的多数者が有神論者であろうとも、私は無神論者であることを改めようとは思わない。私の経験(偏見)は神を承認しない。

平清盛

2012-01-13 14:46:07 | Weblog
 NHKの大河ドラマ「平清盛」の予告編では清盛が「この面白うない世を変えたい」と叫んでいるがこんなことを清盛が言ったとは思えない。少なくとも私は寡聞にして知らない。似た言葉なら知っている。清盛から約700年後の幕末の高杉晋作の辞世の句「面白きことも無き世を面白く」だ。
 清盛は決して改革者ではなかったし余り魅力のある人物とも思えない。視聴率の低さはその現れだろう。武士でありながら太政大臣になれたのはそれまでの功績によってではなく白河上皇の隠し子だったからということはほぼ定説だ。
 有名な「この一門にあらざるは人たるべし」も清盛の言葉ではない。義理の兄の時忠の言葉だ。この言葉を根拠にして「驕れる者は久しからず」と結論付けるのも正しくなかろう。平氏は驕ったからではなく、武士であることを軽んじたから失敗したのだと思う。平氏は藤原氏のように天皇の外戚として権力を握ろうとしていた。
 源頼朝は平氏とは全然違った戦略を採った。朝廷とは一線を画して遥か離れた鎌倉の地で武家政権を開いた。つまり武士としてのアイデンティティを貫いて武士のための社会を作った。英雄義経を殺したこともあって人気は無いが社会改革者としての功績は清盛よりも大きい。