俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

乾いた雑巾

2012-01-20 15:25:27 | Weblog
 乾いた雑巾を絞ろうとすることは愚策だ。濡れた雑巾は幾らでもあるからだ。私はサラリーマン時代に20ほどの部署に配属されたがどこでも経費削減に取り組んだ。どの部署にも無駄は幾らでもあった。
 私の削減策は独特のものだ。基本的には「減らす・やめる」という常套手段は使わない。仕事の仕組みそのものを変えるか誰もが当たり前と思っていることを見直すことが私のやり方だ。最も効果があったのは宣伝部時代の郵送方法の変更と印刷用紙の見直しだったが、一番私らしいのは企画部時代の洋式トイレの蓋の撤去だ。
 様式トイレの蓋を無くせば3つのメリットがあると私は主張した。①部品が減れば設置費も維持費も減る。②清掃時間が短縮できる。③蓋を開けずにすぐに使えるので利便性が増す。
 私は大真面目に主張したのだが、ジョークと誤解されて笑われた。なぜなら様式トイレに蓋をがあるのは当たり前で、当時蓋の無いトイレを誰も見たことが無かったからだ。
 その後、実際に蓋の無いトイレが現れるようになってからようやく理解されるようになり、蓋の無いトイレが設置されるようになった。このように人は現在ある物を正しい物と信じ込む悪い癖を持っている。疑わずにずっとやり続けていることこそ無駄の温床だ。慣習や信念にメスを入れれば幾らでも無駄を減らすことはできる。

無信仰

2012-01-20 15:10:40 | Weblog
 世界人口70億人の大半は信仰を持っている。信仰を持つ人が多数派なのだから無信仰の人はグローバル性を欠くことになるだろうか。
 信仰とは偏見であり迷信の塊りだ。キリスト教徒とムスリムは、本音ではお互いを邪教徒だと思っている。これは犬と猫がお互いを狂った動物だと軽蔑し合うようなものだ。犬から見れば「ニャオ」と鳴く猫は狂っているし、猫から見れば「ワン」と鳴く犬は狂っている。キリスト教徒とムスリムは「ワン」と「ニャオ」で対立するようなものだ。「ワン」とも「ニャオ」とも鳴かない動物だけが偏見から自由になれる。つまり無信仰者だけが偏見から自由だ。
 日本文化は多分、世界で最も宗教から自由な文化だろう。宗教的偏見が少なければグローバル性を持ち得る。
 日本語は非常にローカルな言葉だ。どこの言語とも違う。そのため日本語に基づく思考はグローバル性を持ち得ない筈だ。しかし日本の漫画やアニメやドラマ(「羅生門」や「おしん」など)はグローバル性を持ち、世界中で支持される。これは偏見や迷信が少ないからだろう。
 世界は偏見と迷信に満ちている。その最大のものが宗教だろう。無信仰であることは偏見や迷信から自由であることであり何ら恥ずべきことではないどころか、宗教的偏見に捕われないだけに世界の問題を仲裁し得る最もグローバルな立場とさえ言えよう。

比例区

2012-01-20 14:52:34 | Weblog
 比例区の議席数を減らす必要は全く無い。逆にもっと増やすべきだ。一方、比例区の議員数はゼロにすべきだ。
 何を訳の分らないことを言っているのかと非難されそうだが、私は比例区の議席数は必要だが議員は全く必要ないと言いたいのだ。2010年3月23日付の「ヴァーチャル議員」でも書いたことだが、比例区は党に対する投票であって個人に対する投票ではない。党に対する投票を人に置き換える必要は無い。党に対して「議席数」を与えて国会での採決で票数に加えればそれで充分であり議員は要らない。選ばれた訳ではない人を議員にする必要は無い。こうすれば比例区の人件費はゼロになる。経費削減効果は80議席削減の2.25倍になる。
 比例区の定数削減によって大きなダメージを受けるのは公明党などの少数政党だ。これは多数者による少数者排除という民主主義にとって最も好ましくない横暴だ。小選挙区制などは民意の弾圧にも等しい。死に票が最も多く発生するのが小選挙区制だ。少数意見を切り捨てることは民主主義を否定して多数者による専政を推進するものだ。
 僅か20%程度の支持しか得ていない民主党と自民党が2大政党であることがそもそも間違っている。両党を支持しない60%の人の存在をどう考えているのだろうか。既存政党に対する大きな不満が大阪維新の会の躍進を生んだのではないだろうか。
 比例区は最も民意が反映される。個人ではなく政党に対する評価がほぼそのまま議席数になる。この大切な比例区に対する弾圧は民主主義の否定だ。少数政党およびその支持者はもっと怒るべきだ。