俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

甘い食べ物

2012-04-10 15:25:38 | Weblog
 甘い食べ物が大嫌いな友人がいる。日本酒は辛口しか飲まないし卵も「甘いから」と敬遠する。かつてよく行った鶴橋の焼肉屋「鶴一」もタレが甘くなったと言って立ち寄らない。彼にとって甘いとは不味いと同義語だ。
 彼ほどではないが、私も甘い食べ物が嫌いだ。私の家には砂糖が無い。しかし彼とは違って卵の甘味は受け入れる。卵かけご飯は好物だし野菜炒めや焼きソバには卵を絡める。果物も好きだ。
 多分、私の場合、甘い物一般ではなく砂糖の甘味が嫌いなのだろう。砂糖の甘味は口に残って唾液を粘着かせる。不思議なことに私の好みは20歳前後に激変した。それまでは花林糖が大好きという甘党だったのに、甘さを不快と感じるようになった。酒を飲み始めたことと因果関係があるかどうかは分らない。味覚そのものが変わったとは思えないから、それまで快と感じていた味を不快と感じるようになったということだ。これが心理的なものか生理的なものかはよく分からないが、ある刺激に対して快と捕えるか不快と捕えるかを決めるのは知覚ではなく統覚だということだろう。ジェットコースターのような強い刺激に対して「怖い」と感じるか「面白い」と捕えるかが紙一重の違いであるのと同じようなものだ。

テレビ番組

2012-04-10 15:12:56 | Weblog
 タダでも見たくないテレビ番組が存在するということは実に不思議なことだ。知恵と金と時間を費やして作った番組が見るに値しないとはどういうことだろうか。
 昔のテレビは多分今よりもずっと面白かったのだろう。チャンネル争いで家庭内での殺人事件まであったほどなのだから。今、私が見るのはニュースとスポーツ中継と「ダーウィンが来た」だけだ。大半の時間はテレビを点けていない。つまり電気代にさえ値しないということだ。
 勿論、世代の違いもあるだろう。子供向けに作った番組が大人にとってつまらないのは当然だろう。それと同様に阿呆向けに作った番組はまともな人にとっては見るに耐えない。
 当初テレビは人を「博智化」すると期待された。ほぼリアルタイムに情報が共有されるからだ。ところが現実としては「白痴化」を促した。なぜこんなギャップが生じたのだろうか。多分テレビ局は視聴者の知的レベルをかなり低く見ているのだろう。そのレベルに合わせるから低俗番組が大量生産されているのだろう。
 ニュース番組のレベルもかなり低い。政府の発表を垂れ流す御用報道ばかりだ。大臣がこう言った、ということが事実であろうとも、その内容が事実かどうかを検証することはメディアの勤めだろう。

ジョークとパラドクス

2012-04-10 14:55:39 | Weblog
 私は論理を好む。しかし論理主義は日本では必ずしも支持されない。「理屈ではそうなるが何か割り切れないものがある」というのが本音だろう。2+3=5のような論理には冷たさを感じるし、「スタートレック」の宇宙人スポックの過剰な論理性は滑稽とさえ思える。
 論理と対峙するものとしてジョークとパラドクスがある。これは論理を否定するものではない。論理の不備を補うものだ。論理は単純化し過ぎるという欠陥を持つ。例えば「リンゴ2個とミカン3個なら合わせて何個か」という算数の問題に私は憤りさえ覚えた。異質なものを足し算すべきではない。例えば水1ℓと油1ℓを足したらどうなるだろうか。1.9ℓほどになるそうだ。分子の大きさが違うために隙間が埋められるからだ。
 政治家も面白い理屈を使う人が好まれる。橋下市長や石原知事や小泉元首相はしばしば奇妙な論理を使う。吉田茂元首相は「なぜそんなに元気なのか」と尋ねられて「人を食っているから」と正に人を食った答弁をした。池田勇人元首相は「私は嘘は申しません」と日本政治家史上最大と言われる嘘を残した。
 小泉氏を最後に、ジョークやパラドクスを使える首相はいない。福田康夫元首相は「私は自分自身を客観的に見ることができるんです」と答えて大いに笑わせてくれたが、これは迷言であってジョークとは言い難い。ガチガチの論理はつまらない。論理を理解した上でジョークとパラドクスを加味すれば偏狭さを克服することができる。